私が人生の中で直接出会った人のうち「こいつにはかなわないな」と舌を巻いた人間が三人います。
一人は、大学時代からの親友M君。
狭い四畳半のアパートがとにかく本の山で、床が抜けそうで。本の隙間に寝ているという感じでした。
そのころ、ちょこっとインテリを気取ってみたかった大学生は、浅田彰などに影響されて…
ポスト構造主義の哲学者たちの本を持って、読んでる「フリ」をしていました。
でもM君は深く読み込んで、ばっちり自家薬籠中の物にしていました。
しかもフランス語の難解な現代哲学の本を、原書で読んでいました。
ある時、訪ねて行ったら熱心に紙に数式を書いているので「数学の勉強?熱心だね」と声をかけたら…
「いや、ちょっと考え事をしてただけだよ」と。
微分方程式を使って、今真剣に悩んでいることについて「精密な思考」をしているところだったのです。
専門は政治学科だったのですけれど、本物の「現代の哲人」でした。
卒業後は普通に就職をせず、フリーターになって、古銭商やバーテンダーのアルバイトをしてました。
就職できなかったのではなく、そもそも就職活動をしなかったのです。
はっきりとは言わなかったけれど、いろいろ考えがあって、サラリーマンになりたくなかった様子。
ところがある日、ちょっとしたきっかけで、テレビドラマのADをやらないかということになって。
それからそっちの世界に入って、ドラマの演出やプロデュースの仕事をやって来ました。
フリー時代が長くて、現場で大けがをしたりなど、苦労の連続だったのですが…
その後、いつの間にか、大手の番組制作プロダクションの幹部になって。
いまや押しも押されもせぬ、大プロデューサー様…
なだけでなく、その業界では珍しい「人格者」として、役者も含め多くの人から尊敬を集めています。
つい先日、妻や大学時代の女友達を交えて、5人でジンギスカンの会食&飲み会をしたのですけれど…
彼は、自分のおじいさんの遺品であるツイードのジャケットを、今風に仕立て直して着ていました。
長年リペアを繰り返しながら大切に履いている革靴が、写真付きで雑誌に取り上げられたこともあった。
外見も会話の中身も、両方ともお洒落でダンディーでインテリで。今も変わらず尊敬する畏友です。
最近デジタルデトックスをして、久しぶりにがっつり読書をするようになった直接のきっかけは…
この友達と会って刺激を受けて、もっと知識を身に着けてから死にたい、と思ったからなのです。
(彼はこのご時世に、年に1回はヨーロッパ長期旅行をする財力もあるのですけれど)
二人目は、現在も私のビジネスパートナーである、イタリア人のF。
日本で何かの「活動」をすることに見切りをつけて、祖国に帰ってしまいましたが。
とにかく、歩く百科全書みたいに恐ろしく博学で、しかも一つ一つに深い知見を持っている人物。
本業は建築設計と都市計画論で、米国のブラウン大学と日本の慶応大学で教鞭をとっていました。
ソウル大学の新校舎の、すごく変わったデザインも彼の手になっています。
その他歴史、哲学、古典文学といった人文系の学知だけでなく、数学、美術、音楽に造詣が深く。
日本の某音楽大学で、オペラのイタリア語の、発音・発声を教える先生もしていました。
十代の頃まではプロのピアニストを目指していたんだとか。
また料理の腕はプロはだしで、滞日中は「日本で一番美味いイタリア料理店は俺の家」と豪語。
さらにワインについての深い知識と、鑑定についての「神の舌」を持っていて。
「万能の天才」と称されるレオナルド・ダ・ビンチが、現代によみがえったような男です。
(同じイタリアの地が生んだ人間ですね)
三人目は、私の息子。
親の欲目を差し引いても、薬学の世界で、将棋界の藤井聡太さんみたいな早熟ぶりを見せていますが…
(今やっているテーマは創薬科学というより基礎化学の分野で、そこに物理学を援用しているらしいです)
それよりも何よりも人間性の面で、親である私がとてもかなわないなと。
この週末に帰省したとき、同じ研究室の、ナイジェリア人の同僚であるダヒル君から…
「ユー・アー・マイ・ファースト・ジャパニーズフレンド……アンド・ベストフレンド」
と言われたというので…。
ナイジェリアは20~30年後には世界でトップクラスにホットな新興国になっていると思うし…
(今でもアフリカ最大の人口とGDPを持ち、もう一息で「G20」に入る勢いなのですが)
ダヒル君は国のトップエリートなんだから、その友情と人脈は、将来きっと君の人生にプラスになるよ…
という話をしたら。
「僕には、そういうことは全然関係ないんだよ。ただダヒルが真面目でしっかりした人間で…」
「しかもすごくいいやつだから友達になりたいし、困ったことは助けてあげたいと思うだけなんだ」
「ほんとに正直言って、自分にとってプラスとかマイナスとかどうでもいいんだよ」
と、真顔で返されてしまって。
実利というか、未来の有力者とコネができる、みたいな下心に近いところで…
「友達として大事にしたほうが」と言ってしまった自分が…
なんだか恥ずかしい気持ちになってしまったのです。
息子は自分の気持ちに正直に、友達になりたい人間だから友達になる、ただそれだけなのでしょう。
そういう心根でいるからそれが相手にも伝わって「ベストフレンド」と言ってもらえるのかなと。
ダヒル君と息子が一緒に写った写真も見せてもらいましたけれど…
本当に自然体な友情が育まれているのが、写真の中の二人の表情や態度からも、伝わって来ました。
私などは、今までの経験で…
鉄道駅などで通りすがりのアフリカ系の人に、親切にしてあげたことはありますけれど…
どこかに、差別意識までは行かないけれど、黒い肌の人に対して、心の壁があるというか…
うっすらとした恐怖心みたいなものがあるというか。
理性で「親切にしてあげなければ」と意識してやっていたようなところがありました。
一方、息子は心底ナチュラルに、当然ながら差別意識の「さ」の字もなく…
偏見のかけらも一切なく、接することができる人なんだなと。
それは、世代の差もあるのかもしれませんが。
人種による抵抗感や国籍による偏見が一切ないのは、小学校のころからもうそんな感じでした。
前にも書いたことがありますが、中国籍のクラスメイトがいじめに遭ったときも…
止めに入って、しかもいじめっ子たちとまでうまく折り合って、いじめそのものを終息させたり。
最初にいじめをやめさせようと介入したときは、かなり勇気が要ったと思いますよ。
結構戦略的な人なので、同調者の子をひとり、巻き込んでから止めに入ったようですけれど。
ともあれ、人間としての度量というか、大きさというか、そこが既に子どものころから、私とは違う。
外国の人だけでなく、弱っている人、困っている人、危機にある人全般に対して…
まず頭で考えるのではなく、自然と体が動いて、助けるような行動に出る人間。
以前、夜道で倒れている人を見つけた時も、秒速で救急に電話して、冷静に対応してたし。
目の見えない人や車いすを使っている人、高齢者や、赤ちゃん連れの人が困っているときなど…
ためらいなく自動的にサッと動いて、サポートするところを何度も見て来ました。
中学の時、不登校になったクラスメイトがいたのですけれど、息子と一緒なら何とか登校ができて。
その子のほうから朝、息子を呼びにやって来て、一緒に学校に行ったりしていました。
登校後は、その子は保健室で勉強している日も多かったようですが。
卒業式の後、その子のお母さんから「〇〇君がいたから学校に行けたんです。ありがとうございました」
と、妻がお礼を言われたそうです。
どうして息子が一緒なら登校できたのか、息子とその子の間に何があったのか、いまだに分かりませんが。
とにかくいつも周りをよく見ていて、そういう人がいるといち早く見つけるんですよね。
そういうのも、ぼーっとしていて気付くのが遅い私には、まねできないところ。
帰省しても、彼がいるだけで場の雰囲気が楽しくなって、自然と笑いが出て、光が差したようになるし。
実家に帰ると、小中高時代の友達から毎日「お座敷がかかって」出かけていたり。
(息子の話が面白くて座持ちがいいから、彼を呼ぶと盛り上がるみたいです)
彼のアパートに、年に一度、夏休み中にわざわざ高校時代の友達が集まって来て「合宿」したり。
そういう「人徳」みたいなもの、私にはないところです。
一方、小学校から高校の途中まで、とにかく算数-数学が大の苦手で、それで苦しんで…
とにかく「ど文系」だったのに。
「薬学をやるためには、数学ができなかったらスタートラインにもつけない」
ということで猛勉強して、結局ああして、科学者の道に入ってしまいました。
それは傍で見ていて、並みの努力ではなかったです。
決めた目標にたどり着くためだったら、どんなことでもする。絶対にそれから逃げない。
そういう、根性みたいなものも、見上げたものだなと。
同じテーマで共同研究していたインド人の元同僚とは、怒鳴り合いの大喧嘩をしたみたいですけれど。
そして彼が米国に「栄転」してから、その実験データが全部いい加減なものだったことがわかって。
「いつか会うことがあったら殴ってやる」と息巻いているのも…
自分がその尻ぬぐいのために、1か月余りの間「地獄の仕事漬け」になったからではなくて。
「日本人だけでなく、あいつが薬学そのものをナメていたのに腹が立つんだ」と言っています。
そのインド人が日本で研究したのは、それをステップにして、その後米国で良いポストに就くための…
ただの腰掛けだったわけで。
そして良いポストというのは、日本とはけた違いの、米国での「俸給」だったわけです。
それに対して、息子の言うには…
「お金や名誉や地位のために薬学をするのは、薬学に対して不誠実で、冒涜だよ」
「誠実な研究者なら『薬学のために薬学をする』のじゃなくちゃいけないんだ」
そうです。
「〇〇のために〇〇をする」
つまりその仕事にほれ込んで、心から仕事を愛しているから、好きだからそれをやっている…
そんな人なんて、実際はほんの一部だと、私でも思います。
でも、それこそ藤井聡太さんが、カネや名誉や棋界での権力のために将棋をやっているのかといえば…
おそらくそうではないでしょう。
野球の大谷翔平さんだって、カネや名誉や権勢のために野球しているのではなくて…
おそらく、野球そのものがやりたいから野球をやっているのだと、はたから見ていて感じます。
「〇〇のために〇〇をやる」人たちだからこそ、常人にはできない努力を、苦にもせずできるのかも。
そういう気持ちを持てる人格というのはやはり特別なもの。限界まで努力できる、というのも…
一種の「天才」なのかもしれません。
ただ、そんな息子も決して「聖人」なわけではなくて。
路上でアルファロメオ・ジュリアなど見て「将来はかっこいい車、乗りたいなあ」とか…
「僕が稼いで専任の介護人を頼むから、お父さんは安心して長生きして」などと言う程度には…
しっかり「しゃばっ気」も持ってはいるようです。
競馬やるし。
安く酔えるからといって、チャミスルを割らずに飲んじゃうし。
(ひとり飲みは全くしないそうですけど)
そういうのを聞くと、なんとなく、どこかで安心してしまう自分がいるのですが。
とにかく…
それがたとえ我が子でも、年齢が38歳下の若者であっても、ひとりの人として見たとき…
尊敬に値するなと私は思うのです。
これって変、でしょうか?
追記:息子のことを褒めると「また息子自慢が始まった」と思われる方がいらっしゃるかと思います。でも子は、親とは全く別人格なのであって、もし立派になったとしても、それに対する親の貢献はごく限定的なものだと思います。ほとんどは、本人の運と、努力と、出会ったすべての人たちのおかげです。だから息子「自慢」というのは言葉として根本的におかしいと思うのです。子が立派なのを親が「誇る」とすれば、それは親の驕りなのではないでしょうかね。