◎ 五欲・・それは、食欲・色欲・物欲(金銭欲)・権威欲・生命欲を言う。
どの欲にも絡んでいる欲・・・を渇愛・・と言う。この渇愛は場合によって意味を形を変える。
渇愛は留まる事の無い欲を言うが、自分勝手な限りない欲を言う本来の愛とは違うものだ。
神も御仏もキリスト教もあらゆる宗教の教えの根源は言い方や説き方は違っていも全ては愛を目指す事を意味している。それは創造主の意志で有り、万物は創造主の愛によって造られたもので有るからに他ならない。
この世の相対性の見地から見ると愛に反するものとして渇愛が挙げられるかもしれない。
愛とは求める意志とは別に他方から自分に向けて与えられるもので有り、また、損得抜きで自分以外の誰かの為に施す(与える)愛を言う・・。時として大いに自分を犠牲としてしまう場合も有れば、要求せずとも与えられる愛で救われる事も有る。愛によって人は生かされているのかも知れない。
それに引き換え・・渇愛は、だれだれの為とか、愛しているとか愛して欲しいとか結局は、己の為に存在し要求する欲する己に向けられた愛もどきである。
愛と渇愛とは相対的位置に在りながらともすれば勘違いをしてまうほどに見分けが付きにくい・・・。あえて判断の仕方が有るならば、愛は生きる活力と喜びと生甲斐を見出し幸せと心の安らぎが存在するが、渇愛は苦悩と悲しみと不幸を、時として憎しみ殺意まで興しかねない心の安らぐ事の無い存在で有る。
見分けが付き難く勘違いをしかねない・・・気が付けばいつの間にか摩り替っている・・・危なっかしく厄介な存在である。
だから何時も己と向き合い・・・愛か・・それとも渇愛なのか・・を見極めなければならない。
~~~~~~~★~~~~~~~★~~~~~~★~~~~~~~
超訳・・ブッダの言葉より
渇愛の蜘蛛(くも)の巣を断ち切る・・・
自分だけが脳内快楽を味わいたくて、「私の事、ちゃんと理解して欲しい」
「もっとちゃんと見て欲しい」「もっとちゃんと評価してほしい」
「もっとちゃんと愛して欲しい」と、わがままな欲望思考に君が洗脳されてしまうなら、まるで蜘蛛が自分の糸にからまる様に、自分の渇愛(さみしさ)の糸にからまり、その苦しみに窒息死してしまうだろう・・。
君が智慧(物事の分別)を武器にしてこの蜘蛛の巣を断ち切るなら、苦しみを捨て悠々と歩いて行ける・・・。法句経347
~~~~~~~★~~~~~~★~~~~~~~★~~~~~~~
「どうして分ってもらえないのだろうか・・・」と、昔、随分と苦しみ悩んだ事が有った。「釈迦にどうしたら分って貰えるだろうか・・・?」と尋ねたら、
「それは自分の思うがまま・・我が(わが)・・思うがまま・・・我侭(わがまま)である。」と言われた事が有る・・・。「何で私が我侭なのか・・・」と随分と腹を立てた事が有る。どう考えても自分の言う事思う事(思考)は、正しいのに・・と思った。苦悩は随分と続いた。
今なら・・・理解が出来る・・・それでも、ぬぐい切れない部分もあるが・・。
坂本竜馬が、[俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。」と言っていたけれど、相手を言い負かせても相手の心魂は思うがままには成らない・・・空しさと苦悩する無駄を言っているのだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます