スピリチュアル~★~釈迦の教え・・・渇愛(渇欲)根っこを掘り崩す
◎ 渇愛(さみしさ)の荒れ狂った川の流れは、癌があっちこっちに転移するのにも似て、あっちこっちに流れては転移する。
満たしたと思えば直ぐに足りなく成る。その渇愛(たりなさ)をごまかしたくて「あれが欲しい・・」「もっとかっこいい仕事がしたい・・・」「みんなにもっと尊敬してほしい・・・」と、我侭と言う名の植物がどんどん茂っては君を苦しめる。それらの植物が生えた事に君がハッと気付けるならば、智慧のスコップでその植物の根っこを掘り崩す様に・・・。
超訳・・・ブッダの言葉より・・・法句経340
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渇愛を・・・さみしさ・・・たりなさ・・欠乏感・・など、言葉の表現は色々と変わっては居るが、全ては欲・・を意味するもので、渇欲の事である。
釈迦の説法を一言で超訳するならば、五欲(食欲・色欲・物欲・権威欲・生命欲)の事を示し、それらにより悪が生まれる・・。その悪が己を苦しめる。故に本当の幸せは、心魂の安らぎに有るのだから、欲を捨て空(から)になりなさい・・。そうすれば、苦の基、悪が無くなるのだから、苦しみは無くなる。そして、その為には、しっかりと己と向き合う事が大切である故に、その方法として瞑想をしなさい・・。そう説かれている。
瞑想は・・・一般には、何も考えずぼ~とする事の様に思われているが、そうでは無い。正しい御仏の教えを知った上で、己と向き合い思考し苦しみも伴うが悟ったその先に空と成れる・・・と言う意味である。
空に成る瞑想に至るまでには結構な努力を要する・・。空に成る為の教え・・・それが、経典で有り釈迦の説法である。
正しい教えを学んでこその瞑想である。
修行層達の瞑想は確実に効果が有る・・それは、ちゃんと学んでいるからである。
瞑想をし空と成る事・・・それは、創造主(神)が造った本来の人間の姿である。
釈迦の教えが「辛い・・・苦しい・・・暗い・・愛を語った方が綺麗で楽で有る・・。」と釈迦に文句を言うと「器の中の水の底に泥(悪心・悪魂)が静かに沈んでいる。そこに清き水(愛・慈悲・善)を幾ら注ぎ込んでも泥は舞い上がり水を濁すばかりである。泥を除いてこそ清き水を注ぐ意味がある・・」とおっしゃった・・。
人の心・魂には善(愛)と悪が存在する。人によってその割合は異なるのだろうが、本来は、創造主の造りたもう心魂は、愛そのもである・・。ひとの心魂は本来は真っ白く輝くものである。
釈迦は、本来の人間に立ち返る事に重きを置き、清き水(愛)を注ぐ必要を説いている。釈迦の言う・・空とは何も無くなる・・を意味するものでは無く、悪(黒)を除き真っ白な愛(善)のみの心魂を目指すものである。
欲は、人間が生み出したものである。欲から悪が生まれる。悪の集合体が悪魔・・魔神で有り、それは人間の悪しき心魂が生み出したものである。
欲と悪によって人は苦を背負っている。欲・悪・苦を背負う心魂がどうして幸せになれようか・・。
5欲によって生み出された悪・・・を五悪と言いい、五悪は、嫉妬(妬み)・恨み・怒り・嘆き悲しみ・殺意・・・を指す・・。これによって人は苦しみ不幸は生み出されていく。
瞑想し、心魂を善(愛)に導きた時に、神や御仏の姿や声を心魂で聞き見る事が可能に成る。己の進むべき正しい道を知る事が出来る。
生きるに当たっては、不意の理不尽な出来事に遭遇する事も有る・・。嫌な事や腹の立つ事も有るだろうが、瞑想はそう言った場合でも、冷静で動じない言い換えれば不動の強い自分を造り出してくれる。対処も出来る・・故に、前に正しく己のみの価値有る道を歩む事が出来る。
正しい教えを知らず、野望を増幅させ渇欲に落ち瞑想をする者は、神・御仏と思いきや悪魔(魔神)を呼び寄せる。思う様に一時的には栄えても何れは滅ぶ事と必ず成る。
間違った瞑想・・己と向き合う・・・そうならない様に、正しい教えを学ぶ必要が有る。
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もう、生まれ変わらない・・・(ブッダの言葉より)
人生の黒幕よ・・。
お前の正体は「欲しい欲しい、足りない足りない・・・」と騒ぐ生存本能なのだと私は見破った。お前が生まれ変わりの建築材料に使う煩悩も無知も全て破壊し尽くした。私は次に死んだら、二度と生まれ変わらないだろう。
私の心は、生まれ変わりを続けさせる衝動(エネルギー)を離れて静まりかえり、生存本能を滅してブッダと成ったのだから・・。
黒幕・お前・・は、悪しき心、悪魔を指す。無知とは、人間の本質を知らない事を指す。生まれ変わりを続けるとは・・・輪廻転生を指す。衝動・エネルギーとは、欲望と悪を持つ心魂を指す。ブッダとは・・・悟りし者を指す。
釈迦は、心魂から悪しき部分の全てを消滅し、真っ白く輝く心魂のみと成った故に神の領域に入り、生まれ変わる(輪廻)事は無くなった。
白く輝く心魂は、愛そのものである・・。創造主の造りたもう本来のもの(姿)・・。故に神の領域に釈迦は鎮座している。その心魂(愛)は人に注がれている。
イエス・キリストも同様で有る・・。彼は、愛を器(心魂)に注ぎ続ける事に重きを置き、心魂を白く輝かせる事を目指した。彼の心魂は、確かに清く真っ白だった。故に、死後、神の領域に入った。
人が遥か昔の頃に、欲を持つ事と成り、渇欲を持ち悪を生み出す事と成り、心魂に悪を宿す事と成った時から神の領域には入れない事と成った。
アダムとイブの話の、エデンの園から追い出された・・とは、神の領域には入れなく成った事をいい、永遠の命が無くなった・・とは、神の領域には居られない・・悪しき心魂を宿した為に輪廻転生を繰り返す・・事を意味する。
生まれ変わる事を良しとし、長く生きる事を幸とする・・・そんな人間の思考とは裏腹な所に神の真実は有る。
また輪廻転生をし、多くを体感し己の心魂を磨き欲と悪と苦悩を抱え生きる・・・さ~この後、何回生まれ変われば、私達は真っ白に輝く心魂と成り、神の領域に入れるのだろうか・・?
あいつは要領が悪い・・正直者は馬鹿を見る・・・頑張っても報われない・・誰も認めてくれない・・苦しくて難儀ばかりだ・・・理不尽な出来事が・・・けれども・・そんな人ほど、神の領域は近く成る。
故に、悲観する事は無い・・。明るく生きれば良い・・。誰からも非難される事も結果も要とはしない・・。
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