今日の川柳
サムライもコロナ相手に剣は錆び
さむらいもころなあいてにけんはさび
十一月も所在なさそう。
地と天を行ったり来たり川柳子
ちとてんをいったりきたりせんりゅうし
自分では自由自在のつもり。
本物は二万回もウソをつき
ほんもほのはにまんかいもうそをつき
トランプ慣れ。
二万回もウソをつけば本物だ。
参考(10/25付 日本経済新聞)
大統領はウソをつく――。
米国の歴代大統領が、国民や世界をいかに欺いてきたかを解き明かす著作を最近、出版したニューヨーク市立大学のエリック・オルターマン教授の「結論」である。
失政から目をそらすため。再選に不利な情報を伏せるため。スキャンダルや健康不安を隠すため。
トルーマン大統領は広島への原爆投下について軍事基地に落とした。
民間人の犠牲を最小限にするためだった」とラジオで告げた。
冷戦のさなかは「安全保障上の要請」が、国民を真実から遠ざける隠れみのになった。
カーター、オバマ両大統領はウソが少ない方だった。
同じ民主党でも、ベトナム戦争を泥沼化させたジョンソン大統領は多くのウソをついた。
洋の東西を問わず戦争は為政者をウソまみれにする。
飛び抜けているのはトランプ大統領である。
ワシントン・ポスト紙の集計によれば、就任以来、2万回以上の「虚偽や誤解を招く発言、発信」をしたそうだ。
慄然(りつぜん)とするのはその中身である。
「過去の大統領のウソには理由があった。
しかし、彼の場合は理由が不明なものが多い。
真実とウソの境界が認識されていないかもしれない」とオルターマン教授はいう。
以前、インタビューしたポスト紙のファクトチェック責任者も語っていた。
「ふつうの政治家は虚偽を指摘されると、恥ずかしそうに取り下げるか、訂正するものだ。
だがトランプ氏は堂々と同じ話を繰り返す」と。
*
ふと、わが胸に手を当てる。
約束の時間に間に合わず、「道が混んでて」と切り抜けたことはなかったか。
自分のウソがだれも傷つけていないとわかったとたん、それこそウソのように罪悪感が雲散して心が晴れた経験はなかったか。
トランプ氏がウソをつく理由を解明するには、そのウソがどう社会に受け入れられているのかを探らねばなるまい。
道徳心理学が専門のロンドン・ビジネススクールのダニエル・エフロン准教授は
「状況次第では事実だったかもしれないと想像できる政治家のウソに、支持者は寛容になる」という。
“自分の大統領就任式では群衆が広場を埋め尽くした”“ウイルス検査キットは足りている”。
ウソと知りつつ、「天気が良ければ、そうだったかも」「そのうちキットはそろうはず」と自分を納得させて、
トランプ氏の虚言を受け入れるのだという。
背筋が凍るのは、その先だ。
「見えすいたウソ」を受け入れ合う営みを重ねることで、政治家と支持者の間に一体感が築かれる。
周囲から批判されるほど絆は強まる。そうエフロン氏は指摘する。
分断が進んだ社会では「自分たちの陣営が対立する陣営を圧倒することが最優先される。
ウソをついてでも、目的を達してくれる政治家が重宝される」と、
米デューク大学のダン・アリエリー教授(行動経済学)はいう。
これは、政治家が政策という形で解決策を国民に示し、
国民がその信頼性も吟味して政治家を選ぶという、民主主義のあるべき姿からは、かけ離れた光景だ。
しかし、「近年は、政策よりも、自分の価値観の受け皿になってくれるかどうかというアイデンティテー(帰属意識)の方が、
支持する政治家を決める指標になった」(政治学者のフランシス・フクヤマ氏)と聞けば、合点もゆく。
*
大統領選の候補者討論会の目玉も、今や各メディアによるリアルタイムのファクトチェックである。
政治家の発言を検証する意義は理解しつつ、
真偽に頓着しない熱狂的な支持層に向けてウソが垂れ流されるさまを見ていると、むなしい気持ちにしばしば襲われる。
米国の記者たちも、じくじたる思いをしているようだ。
ホワイトハウスでさる8月、1人の記者がかねて温めていた質問をトランプ大統領にぶつけた。
「大統領。3年半、国民にウソをつき続けたことを悔いていませんか」。
一瞬の間があき、トランプ氏は別の記者を指名した。質問は無視された。
あの「間」は何だったのだろう。
ほんの少しでいいから、呵責(かしゃく)の念であってほしいと切に願う。民主主義のためにも。
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