今日の川柳
真昼間どこだここだとミョウガの子
まっぴるまどこだここだとみょうがのこ
庭の一角でミョウガを育てている。
この季節ときおりその茂みに顔を突っ込んでミョウガの子を探す。
実際は花が咲き始めてやっとありかが分かる。
咲くまでそのありかはなかなか分からない。
信じれば駄句も秀句と我田めき
しんじればだくもしゅうくとがでんめき
まあそんなもんですね。
給湯器換える換えぬも人次第
きゅうとうきかえるかえぬもひとしだい
寿命か給湯器が故障してしまった。
数多ある設置業者のなかから信頼のおけそうな所を探し出す。
営業職も難しい職種であることがよく分かる。
〔 ヒト、このひ弱な生き物 〕
万物の霊長といわれているヒトも、大昔から賢かったわけではなく、長い年月の試行錯誤が今の地位を築きあげてきた。
ところでヒトの祖先はどんな動物であったのであろうか。
よくヒトの祖先はサルであるといわれているが、もっともっと昔の祖先はどんな動物であったのであろうか。
化石や分類学の研究が教えるところでは、それは原始的な霊長類、今生きている動物でいうと、
ナキウサギやキネズミの仲間に近いという。
それらは、いずれも小型で弱々しい動物である。
しかし彼らは、現在までの1億年以上にもわたる長期間、細々とではあるが、
時としてどう猛で大型の肉食動物の餌食になりながらも逞しく生き抜いてきた。
それらの動物は、肉体的には動物の中では最も弱小である。
実は今でもヒトは肉体的には他の動物にに比してひ弱な存在である。
肉を食いちぎる鋭い牙はない。一撃で相手をなぎ倒す強力な腕力もない。
空を飛ぶ羽もなく、逃げるが勝ちとばかりに俊敏な脚力も備わってはいない。
まったく無い無いずくしである。あきれるほどわれわれ霊長類はか弱い動物である。
ではわれわれの祖先はその危うい永い時代をどうやって生き抜いてきたのだろうか。
答は住み分けだという。
われわれの祖先は、生活の場を獰猛な動物たちと住み分けることによって身の危険を回避してきたというのである。
その場は、樹上である。木の上である。
ところがやっかいなことに、木の上は不安定である。
油断すると足を踏み外して転落の憂き目にあう。
しかし注意すればこれほど安全な場所はない。
そして不安定ではあるが安全な樹上生活への選択こそ、ヒト化への唯一の入り口であった。
樹上生活で獲得された能力として推測されるのは、
①前足で枝をつかんで身を確保する能力(→手と足の役割が分化)
②枝から枝へ確実に身を移動する能力。(→立体的にものを見る目・脳の発達)
③骨格の変化(→直立二足歩行への準備)等があげられている。
このような長期間にわたる周到な準備があって初めて、木の上の生活をやめ地上に降り立った時、
二本の前足(手)が自由となり二足歩行が可能な肉体になった。
その自由な前足(手)で武器を操り集団で獰猛な動物たちに立ち向かっていったのであろう。
道具を利用(作り)、使用するサル=ヒトの誕生である。
ヒトがここまで進歩し、賢くなってきたのも元をただせば、皮肉(?)にも弱さゆえの結果といえる。
肉体的な弱さを、道具を作り活用することによって克服してきたのである。
弱さは、工夫次第では強さへ転化する可能性を秘めているのでは思う。
今日の川柳
丸めても丸くならない蟠り
まるめてもまるくならないわだかまり
頭を丸めてもなんの解決策にはならない。
この春せっかくつかみとった職ですがやはりお辞めになるより他はない。
三蜜も老いの習いで飼い慣らし
さんみつもおいのならいでかいならし
社会の変化を積極的に取り込むのではなく、仕方なく受け入れていく。
これも老成のなせる業か。
風流や蛍を語る天声人語
ふうりゅうやほたるをかたるてんせいじんご
日ごろからゆとりなくなにかと杓子定規の天声人語氏。
そのなかで6月24日付け、
「小さきものたちが力いっぱい生きる季節」に風流・雅・おおらかさを読み取った。
小生には新鮮なこと。