武田信玄 公像
山梨県 甲府市 甲府駅前
1521年 12月1日(大永元年11月3日) 戦国大名最強とも謳われた甲斐の国主 武田信玄が誕生しました。
武田信玄公像。
甲府駅 南口に出ると、右手に軍配。左手に数珠を握って床几に座した眼光鋭い姿に圧倒されます。
織田信長は、信玄公に様々な品々を贈って慰撫し、また あるいは養女を四男で武田家の後継者 勝頼の婚約者とさせて和睦を取り付け、養女が勝頼の嫡男を産んで間も無く没すると、今度は自身の嫡男 信忠に信玄公の娘、松姫を娶らせる婚約を願い入れ、確約させるという、意地らしいほどに信玄公との戦いを避けました。
徳川家康は、領土拡大の中で度々 信玄公に煮え湯を飲まされます。奥三河、北遠江の領国を接した地域は蹂躙され、家康の新天地 浜松も西上作戦で侵入され、三方原の戦いでは大敗して馬上で脱糞の末に辛くも城に逃げ切ることと、とにかく痛い目に遭いながらも、信玄公との戦いは、敗走後の惨めな姿を絵師に描かせて自身の戒めとしました。
天下を手中に目前まで迫った信長と、様々な苦難の末に天下を手中にした家康が、信玄公を畏
れ、崇敬していたことは間違い無いでしょう。
疾如風徐如林侵 掠如火不動如山
孫子の旗に記された言葉。
疾(はや)きこと 風の如く
静かなること 林の如く
侵掠すること 火の如く
動かざること 山の如し
風林火山の一節として有名な一文ですが、これ
は武田信玄公が孫子の兵法を崇敬していたことから、恵林寺の住職、快川紹喜に書かせたものと伝えられています。
風林火山の一節は、孫子の兵法~軍争編に戦争は外交によって回避すべきと明記されているものの、戦争になったら、どのような策をもって勝利をもたらすかという意味合いで風、林、火、山の4つの言葉により表したと思られます。
武田信玄公の領国 甲斐国は、東は大菩薩峰を経て関東の雄 相模 北条氏。
北は広大な信濃に諏訪、小笠原、村上、真田といった数多くの豪族、そしてその先に越後 上杉氏。
南には霊峰 富士の先に駿河の名族 今川氏。
西を望むと北岳、間ノ岳、甲斐駒ヶ岳をはじめとした3000メートル級の南アルプスの天険の連峰と、四方を囲まれた一瞬足りとも油断のならない甲斐盆地に 1521年 12月1日、大永元年11月3日、甲斐国の守護、武田信虎に嫡男が戦火の最中(さなか)に誕生します。
天下目前にした信長が避け、家康が畏れながらも尊崇した戦国最強の軍勢を率いたのが武田信玄です。