長坂血槍九郎信政 墓所
愛知県岡崎市大和町妙源寺
血槍九郎という想像するだけで戦(いくさ)働きの上手いであろう名を持つ長坂血槍九郎信政は、生涯で93もの首級を合戦で挙げた武将で、
はじめ徳川家康の祖父、松平清康に仕え、広忠、そして家康の代まで仕えた譜代家臣でした。
はじめ徳川家康の祖父、松平清康に仕え、広忠、そして家康の代まで仕えた譜代家臣でした。
彼の槍〜大笹穂槍は、戦働きで槍が濡れた血が乾くことが無かったともいわれ、清康から血槍九郎の異名を授かり、代々その名を継ぐことになります。
家康に仕えてからは、一向一揆から姉川の戦いまで戦い抜きました。
信政は1572年、元亀2年に死去。
娘は服部半蔵正成の妻となり、嫡子〜信宅(のぶいえ)も血槍九郎を名乗り、天正十年の甲州武田討伐に先立ち、駿府を押えていた武田親族衆の穴山信君(梅雪)を七日間かけて説得し、徳川方の味方に引き入れるという大功績を挙げました。
これにより徳川方は無傷で駿河から甲斐へ攻め入ることが出来ました。
血槍九郎の一族斬られる時…
後年、徳川と豊臣の最後の戦い〜大坂夏の陣において、血槍九郎信宅の弟で、徳川将軍家の家来となっていた長坂信時が進軍していた家康六男、松平忠輝の軍勢を追い抜いた所、無礼討ちとして斬られました。
忠輝を岳父 伊達政宗への婿入りさせたことを後に危険視した大御所 家康は、夏の陣での遅参と将軍家直参の家来を無礼討ちにしたことが決定的となり、家康は忠輝に永対面の禁止、後に改易と、重い処分を下しました。