読売巨人軍発祥の地 碑
読売巨人軍発祥の地 碑
千葉県習志野市谷津3丁目 谷津バラ園前
プロ野球セ・リーグの巨人は本日、横浜DeNAベイスターズと最終戦を戦い、横浜DeNAベイスターズを1対0で下しました。
既に優勝はおろか、優勝争いからも脱落したチーム事情を象徴するように原辰徳 監督が退任するという知らせが今朝、報道され、先ほど最終戦を終えたグラウンドで原監督自身が退任の挨拶を延べていました。
今年のペナントレースの戦いはともかく、かつての巨人軍は球界の盟主とも言われるほど強い日本を代表するプロ野球チームでした。
巨人軍がまた憎らしいくらい強く、セ・リーグを盛り上げることを願ってやみません。
その巨人軍が日本初の職業野球球団(プロ野球球団)として誕生した経緯をまとめました。
昭和9年4月、元警察官僚で読売新聞社の辣腕社長 正力松太郎は、日本野球界の発展と健全娯楽の育成のために、全アメリカ選抜チームを招聘することを決めました。
これは、昭和6年の第1回招時に次ぐ快挙でした。
ホームラン王 ベーブ·ルース、 鉄人の異名を持つ ルー·ゲーリック等、超一流の選手が名を連ねる全アメリカチーム招鴨の報道が伝わると、日本中の野球ファンは歓喜に沸きました。
これに対し迎え撃つ格好となった全日本チームは、花形球技である東京六大学の名選手を中心に編成され、母校の名誉にかけて参加した日本代表選手は千葉県習志野市の谷津の地に集結し、 この場を鍛練の場として、 心魂を傾けて白球を追い、アメリカ選抜チームへの対策を練り技を磨きました。
こうして日米両チームは東京をはじめ、全国各地を転戦して熱戦を繰り広げました。
滞日2ヶ月あまり、対戦結果は全アメリカ選抜チームの16戦全勝で終わり、全アメリカ選抜チームはその実力を遺憾なく発揮して日本野球界の発展に巨大な買献をし、職業野球結成の気運を醸成して嵐の如く去って行きました。
そして昭和9年12月、この時の全日本チームを母体として まず、職業野球チーム、大日本東京野球倶楽部が結成され、翌年には名前が改称され、読売巨人軍が誕生しました。
またこの時の巨人軍の誕生を契機として、他の地域からプロ野球球団が続々と誕生し、今日のプロスポーツ競技としての隆盛の第一歩を刻みました。
正力松太郎が招聘したチームの母国 アメリカとは、招聘からわずか7年後に日本は不幸にも戦争を繰り広げ、多大な犠牲の爪痕を残すこととなりましたが、プロ野球の熱戦が戦後復興の原動力にもなりました。
正力 享 オーナーサイン
巨人の黄金期、V9時代を指揮した川上哲治 手形
巨人黄金期の名プレーヤーで終身名誉監督である長嶋茂雄 手形
メジャー選手ハンク アーロンの755本 本塁打記録を塗り替え、現役通算868本塁打を記録した 王貞治 手形
数々の記録より記憶を残した怪物投手 江川卓 手形
巨人の四番を努め、指導者としては第2回 WBCの日本代表監督で世界一連覇を為し遂げた原 辰徳 手形
昭和41年、読売新聞社は読売巨人軍発祥の地となった習志野市に記念碑を建立しました。
劣化して読みにくいですが、石碑には以下のメッセージが記されておりました。
思えば再度にわたる米チームの招時は偉大なる企画であった。
もしも、招鴨がなかったならば、はたしてブロ野球の今日の隆昌はあったであろうか。
思いなかばにすぎるものがあろう。
その意味において、 その招聴ブランはもとよりこの地に集結した巨人軍の誕生は永く球史に記録されるべきである。
今回小社は、この地を読売巨人軍発祥の地として指定し、その経緯を後世に伝えるためにこの碑を建てた。
プロ野球の発展を祈念すると共に正力松太郎氏の卓見と努力に最大の敬意を表する次第である。
この碑は昭和41年に設置されたものを復元したものである。
読売巨人軍はチーム結成以来、リーグ優勝は47回、日本一もその半分近い22回という記録を刻み、今も日本のプロ野球界をリードしています。