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武田信虎 公像
山梨県 甲府市 甲府駅北口
2018年12月、翌年に甲府開府 500周年を迎える甲府駅前に戦国大名 武田信玄公の父、信虎公の像か建立されました。
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武田信虎公(左京大夫、陸奥守、甲斐国守護)
武田信虎は、代々 甲斐国の守護職をつとめる武田家の17代当主 信繩の嫡男として生まれました。
初名は信直(のぶなお)。永正四年(1507年)信繩の死により十四歲で家督を継ぎます。
内乱となって いた甲斐国を力で統一して戦国大名へと成長しました。
永正十六年( 1519年)十二月二十日、川田 (甲府市川田町)から躑躅ヶ崎の地に館を築いて移り住み、(現在の武田神社) 同時に館の周囲には、家臣や商職人らの移住を勧め、寺社も配置して甲斐国の新たな府中である甲府として開きました。
ただ、有無を言わさぬ性格から、近隣の豪族衆との争いは絶えず、重臣達への出陣も飢饉の区別なく駆り出されることで疲弊を招き、諫言する家臣も成敗を怖れてなさなくなり、争いの火種は嫡子 晴信(信玄)とも抱えます。
そんな中で大飢饉の最中に海野氏討伐を強行して凱旋した天文十年(1541年)7月7日。
輿入れした娘の顔を見に行くとわずかな供と側室を連れて婿であった駿河の今川義元のもとへ発ち、国境を越えた際、晴信(信玄)により関門を厳重に閉じて追放を命じられます。
帰路を絕たれた信虎は駿河国に行くしか道は無く、武田家からは賄い料も支払われることから留り隠居して出家し、無人斎道有と名乗りました。
今川義元が桶狭間の戦いで敗れた後妻の大井夫人のつてを宛に上洛し、足利将軍家に奉公しました。
息子 信玄が病没した後の天正二年(1574年)に信濃へ赴き、父を慕っていた信玄の弟、武田信廉が城主を務める信濃国 高遠城へ身を寄せ、82歲で亡くなり、葬儀は、甲府市古府中町の大泉寺で行われました。
後继者となった信玄 勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、分裂していた甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績に上るところが大きいとされます。
7月7日は七夕、織姫星と彦星が天の川を隔てて、年に一度の逢瀬が叶う日ですが、この日に戦国大名として最強の名を記す武田信玄は父に今生の別れをしたんですね。