山岡鉄舟 座像
静岡市清水区村松 鉄舟寺
1836年7月23日( 天保7年6月10日)、徳川11代将軍 徳川家斉の治世下、幕臣 山岡鉄舟かが誕生しました。
山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。
1868年 慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。 ここで京都で勃発したのが
鳥羽伏見の戦いです。
幕府軍1万5千に対して新政府軍は約五千と開戦当初は3倍もの兵力差がありながらも、新政府軍は錦の御旗【にしきのみはた、きんき】を翻(ひるがえ)すと状況は一変し、幕府軍は敗れ、将軍 徳川慶喜は江戸に逃げ帰りました。
新政府軍は、鳥羽伏見の戦いから江戸に逃げた徳川慶喜を追討する名目で東征軍を興こし、江戸城総攻撃を1868年 慶応4年 3月15日と決めて軍勢は江戸を目指しました。
3月9日
そこで東征軍 参謀の西郷隆盛を駿府城下で訪ねたのが山岡鉄舟です。
歴史の一大転換期に勝海舟と西郷隆盛の会談がありますが、その会談の露払い役を果たしたのが山岡鉄舟でした。
後日、西郷隆盛は勝海舟に、山岡は命も名も金も要らぬ困った人だと語り、そんな人が居ないと天下の大偉業は成し遂げられないと 伝えたそうです。
明治維新後の山岡鉄舟は、西郷隆盛の懇願に折れ、明治天皇の侍従を10年務め、また旧幕臣らの救済に奔走し、さらに街道一の大親分と恐れられた清水次郎長を引き立て、彼を社会事業家に転身させる等、様々な活躍を見せました。