

初代 静岡県知事
関口隆吉 像
静岡県菊川市堀之内 JR 菊川駅前


菊川市の茶畑
静岡県菊川市は、西に城下町の掛川市、東に牧之原台地を隔て島田市、牧之原市、南に御前崎市に隣接する人口約46000人の茶産地の街です。
この決して大きくはない茶畑と里の町から初代県知事を輩出しました。
後の初代静岡県知事、関口隆吉 誕生の軌跡
尊王攘夷、倒幕運動、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見、そして無血開城と、およそ これら四文字の出来事をたどることにより、1853年 嘉永6年 ペリー来航から15年後の1868年、日本は明治維新を迎えることになります。
政権を担っていた幕府は倒れ、倒した薩摩、長洲を中心とした外様藩の藩士から倒幕で目立った者が政政権を担う側となり、維新から10年あまり、日本はもっとも激しい変化にさらされました。
旧幕臣 関口隆吉は、1836年 天保7年、江戸与力の関口隆船の次男として生まれました。
隆吉の家 関口氏は戦国時代 駿河の大名 今川氏に連なる関口親永に遡る家柄で、親永の娘は徳川家康の正妻 瀬名姫(築山御前)で、後の徳川将軍家、高家 今川家と縁のある家柄でした。
屋敷のある江戸 牛込の近隣で聡明な少年と知られた隆吉は、13歳で江戸三大道場のひとつ、斎藤弥九郎の塾 練兵館に入り、尊王攘夷思想と無念流の剣術を学びました。
当時、練兵館の塾頭を務めたのが長洲から剣術修行で江戸に来た桂 小五郎で、桂は免許皆伝の腕前で知られ、隆吉は桂と兄弟子の間柄でした。
1852年 嘉永5年、隆吉 17歳のとき、御持弓与力となって家督を継ぎます。
翌年 嘉永6年6月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊~世に言う黒船が浦賀に現れます。
この頃から江戸を中心とした世情はにわかに騒然となり始めました。
その衝撃は全国に広がり、対応に苦慮する幕府の姿もあり、世情は開国か攘夷かで分かれ、特に西国 外様大名の諸藩では、いわゆる幕末志士が大量に発生しました。
関口隆吉は幕府への意見書などを建白するなどの攘夷論者であり、開国して貿易を盛んにして国を豊かにしようとする開国派として知られ始めた勝 海舟の考えに異を唱え、勝に斬りかかったこともありました。
襲撃するも、直心影流剣術の免許皆伝者でもある勝にあしらわれた隆吉、勝を知る交流のあった山岡鉄太郎(鉄舟)に顛末を話すと、勝の真意は、国を売ろうとする単純なものではなく、貿易で財政を豊かにしつつ海軍力を強めて国を守る。そのために幕府と朝廷との間を調製しなければならないと日々苦心してると諭されて行為を恥じ、攘夷一辺倒の考えから変化しました。
その後、江戸市中取締りを命じられた隆吉は、後に牧之原で茶園を開拓をする中条金之助景昭の下で治安を守る役を仰せられます。
1867年 慶応3年、幕府は大政奉還して政権を返上。
この頃の江戸市中は、薩摩、長洲らの倒幕の志士が辻斬り、強盗、放火、婦女暴行とあらゆる犯罪を繰り返して幕府を挑発する動きを活発し、隆吉ら幕府の取締りは至難を極めました。
結果的に鳥羽伏見の戦いで幕府は敗れ、徳川幕府は倒れ、260年に及ぶ江戸の武家政権は終焉しました。
この時、謹慎する将軍 徳川慶喜の護衛の任務にあった幕府精鋭隊に属していた隆吉。
新政府軍に恭順を示す将軍 徳川慶喜の除名を嘆願する役目に山岡 鉄舟が選ばれますが、山岡は太刀の大小も持ち合わせない困窮の身でしたが、隆吉が太刀を山岡に貸して江戸を発ち、駿府にあった西郷隆盛との直談判に向かいました。
1868年 慶応4年 3月9日、隆吉の大小を拝借した山岡鉄舟が駿府に滞陣中の東征軍参謀 西郷隆盛を訪ね、将軍 徳川慶喜の赦免嘆願を懇願、後に西郷は勝 海舟と江戸で会談を行いますが、その露払いとなる駿府で流れが決まってました。
江戸城引き渡しが成り、徳川家は駿河 70万石の藩として存続となり、明治新政府の世になると隆吉は公用人(政府と藩の交渉役となる藩の代表者)の役を徳川家から命じられ、成立間もない政府との間を取り持ちました。
明治3年、江戸城 紅葉山の徳川家祖廟を久能山への移設へ同行することを契機に公用人を免じられた隆吉は一家で駿河へ移住することとなり、同輩だった中条金之助景昭らと牧之原の開拓を本格的に推し進めます。
隆吉は牧之原台地から西に離れた月岡(現在の菊川市月岡)の平地に入植し、茶畑の開墾に取りかかります。
ところが、明治政府から隆吉の元へ三潴(みづま)県参事への要請が届きます。
静岡藩公用人としての仕事をこなした力量を評価されたものでした。
三潴藩は、現在の福岡県の大宰府周辺を含んだ九州の小藩で、旧徳川幕臣とは縁の無い土地でしたが、ここでも参事の仕事を的確にこなします。
明治9年には政府への不満が爆発寸前の山口県令となり、元長洲藩士で政府役人でもあった前原一誠らが間も無く起こした萩の乱には、政府と連携して速やかに鎮圧し、翌年、西郷隆盛らが薩摩藩士族らと決起した西南戦争では、九州への門戸となる山口県の治安維持に苦心しました。
明治政府と連携を密にして萩の乱を短期間に静め、国内最後の内乱と化した西南の役では、九州への出入口となる山口において、薩兵の襲来に備えて多大な苦心するも、結果的に明治政府へその仕事ぶりが高く評価されることとなりました。
明治14年には元老院議官、明治16年には地方巡業使と、政府からは重宝されます。
巡業使として故郷、静岡を見て回った隆吉は、河川の多い静岡で度々起こる水害を対策に掲げます。
隆吉は翌年に静岡県令を拝命します。
旧藩主や贈収賄の懸念から土地の出身者をその県令にはしないという政府の方針から逸脱する任命で、極めて異例の人事が行われました。
そして、この任期中に「県令」は廃されて「県知事」となったので、関口隆吉は初代静岡県知事になります。
明治16~17年には、秋の長雨や台風もあり、農作物は減収が甚しくほとんどの人が日々の食料にも困るような状態となります。
とくに、静岡県では、富士川、大井川、天竜川を始め各河川が氾濫して田畑の流失が発生します。
遠州社山(現在の磐田市社山)に水利用トンネルを開通したり、富士川に水門を設けたり大事業を行って
対策し、また「救荒叢書」を著し、救荒の方法を記述、これは、江戸時代末に船橋随庵という農政学者に学んだ知識を参考に記したものでした。

八穂神社境内の関口隆吉顕彰碑

八穂神社社殿
1887年 明治20年、隆吉は静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校します。
為政者として、事業と教育の充実も推し進め、久能文庫設立には私費も投じて尽力しました。
運命の明治22年4月11日、隆吉は静岡から、自らも堀之内駅施設に関わった全線開通目前の東海道本線の車両に乗り込みます。
隆吉を乗せた列車が西へ安倍川を渡った辺りで、あろうことか、西の用宗から発車した貨物列車と正面衝突を起こし、鋼材が隆吉の脚を直撃したので傷は重く、破傷風を患い療養も虚しくこの世を去ります。
牧之原大茶園、県内の治山治水、東海道本線の堀之内駅施設、女学校の開校と初代静岡県知事として、数々の業績を残した隆吉の生涯でした。
子孫
長男 関口壮吉 ~浜松高等工業学校初代校長
二男 新村 出 ~言語学者・文献学者。『広辞苑』編者
四男 関口鯉吉(天文学者・気象学者)
長女 関口操
操の智 の養子 関口隆正(静岡女学校第3代校主・漢学者)