「ゲオルグから姫さんの好物だと聞いたときには信じられなかったが……本当に食ってるなあ」
「そんなに珍しそうに見ないで。普通の食べ物を2種類、組み合わせただけじゃない」
「いやしかし、その組み合わせが尋常じゃないぞ」
キジローはきゅうりのピクルスのヨーグルト和えをのせてご飯を食べているサクヤを、目を丸くして見ていた。
「おいしいのに。味見する?」
「遠慮する。何かバアちゃんのヌカヅケを思い出すな。黄土色のぬちゃぬちゃしたものに野菜を漬けてわざわざくたんとさせてさ。ヌカドコをひっくり返すのも、すっぱい野菜を食わされるのも、本当にイヤだった。でも家族の中で神社に入れるのは俺だけだったから、いつも俺がお相伴してたんだ」
「ここでも一度、ヌカドコ作ったんだよ。ゲオルグがインキュベーターに入れっ放しににてダメにしたけど」
エクルーが暴露した。
「ちゃんと攪拌台にセットしたんですよ」ゲオルグが反論した。
「あれは液体用だろ。あんな大量のスラッジがちゃんと混ざるもんか。だからこう、手を底までつっこんでだな」
「一度やってみて、その後、アームの洗浄に何時間かかったと思ってるんです」
「だからいつまでも、このうちのシェフになれないんだよ」
ゲオルグはふくれてキッチンにひっこんでしまった。
「かわいそうに」と言いながら、サクヤはくすくす笑っている。
この明るい銀髪の青年がひとりいるだけで、食卓の空気が全然ちがう。いささか不自然な組み合わせかもしれないが、キジローはこの擬似3人家族が気に入っていた。
「でも、キジローの好みのルーツがわかったな」
エクルーが分析した。
「俺のルーツだと?」
「神主とババコン。誰かさんはどんぴしゃだったわけだ」
「エクルー!」
サクヤの抗議の声を無視して、エクルーはハンガーに出ていった。
「今日もトンボと苗床やってるから。夕方にはちゃんと戻る。行って来ます」
「もう! あのコはいつも……」
サクヤは一度浮かせかけた腰を、もう一度食卓に落ち着けた。
「その腐りかけたキュウリだけじゃなくて、西京焼きと白和えも食ってくれよ。俺が作ったんだから」
「あなたが?」
サクヤが驚いて、食卓から顔を上げた。
「ゲオルグに任せると、魚が黒焦げになっちまう」
「ホント、おいしい。白和えの味付けもちょうどいいわ。おばあ様仕込みなのね」
「だからって、あんたがうちのバアちゃんに似てるとは思わないけどな」
再び顔を上げたサクヤは、キジローの顔が思いがけず近くにあったので、身体をこわばらせた。治療槽で3日昏睡して以来、キジローは一度もサクヤに触れようとしない。状態が不安定なので、有難くはあった。
「タケミナカタで流して情報を拾ってくる。それ、全部食ってくれよ」
席を立つとき、かすめそうになるくらいキジローの顔がそばに来たので、サクヤは一瞬目を閉じた。目を開いたとき、食卓には自分ひとりだった。
「みんな黄色い旗、持ったか? 5本ずつ」
グレンがイドリアンの少年たちに呼びかけた。
「持った」
「あ、6本持っちゃった」
「私、3本しかない」
ひとしきり大騒ぎして、旗が行き渡った。
「いいか。じゃあ、放すぞ。1、2、3……!」
カゴから解き放たれた黄色いトンボが一斉に湿原全体に散っていく。来春、ヤゴが育つのに適した場所を探して卵を産むために。イドリアンの子供たちがトンボを追って湿原を走っていく。トンボが卵を産む場所を見届けて、子供たちは旗を立てていく。そこが来年も水のある場所。ペトリでこのトンボと共存していた他の水生生物を移住させるのに適した場所だとわかるからだ。
グレンは小高いところで、湿原に散らばった7人のチビ達が全員ヤチマナコに落ちずにバシャバシャ走っているか見張っていた。1番にかけ戻って来たパディが文句を言った。
「旗が足りなーい」
「何度も言ったろ」グレンがたしなめる。
「トンボがしっぽを水につけた1回ごとに旗を挿す必要はないんだ。近い産卵場所はひとまとめにして1本ずつ挿すようにしないと、いくらあっても足りないだろ」
「だからパディは留守番してろって言ったんだよ」
すぐ後ろを走って来た兄のブルックが決め付けた。
「ちゃんとわかってないんだ。まだ母ちゃんのおっぱいに吸い付いて寝てるんだから」
「兄ちゃんだって怖い夢を見たとか言って、おねしょしたくせに!」
賑やかな兄弟ゲンカが始まった。2人ともしっぽが身体と同じくらいふくらんでいる。
グレンはため息をついた。
この2、3ヶ月、子供が恐ろしい夢を見る、とメドゥーラがこぼしていたのを思い出したからだ。月が砕ける夢。月の欠片が降ってくる夢。隕石による山火事。長雨と冷夏。なかには未来の深い森や花畑、雪景色の夢を見た子供もいた。それで隠しておけない、とあきらめて各集落の長を集めて、ミヅチの7人から事情を説明してもらうことになったのだ。今まで禁域だった泉が開放された。一度ミヅチと話した子供は、ゲートが閉じていても、それどころか泉から離れたところにいても、ミヅチの声が聞こえるようになってしまった。
でもグレンは、夢を見たことも、ミヅチの声を聞いたこともない。またため息がひとつもれた。
ルパに乗ったエクルーと5人のちびが、グレンの一団に合流した。
「そろそろ次のが来るだろ。次は何?」
「ヒスイヤンマ」
「へえっ。あんな速いトンボ、何十匹も集められるのか?」
グレンがにやっとした。
「精鋭部隊を送り込んだ」
「俺だって捕まえられる!」
「私だって!」
ハズされたチビ達が口々に騒ぎ出した。
その時、地面が大きく揺れて空が暗くなった。今までケンカしていたチビ達の何人かが激しく泣き出した。
「何だ? ぶつけたのか? ひっかかれたか?」
グレンが慌てて割って入ったが、ケンカのせいではないらしい。何も言えないほど脅えきっている。
泉の祠からジーラッハが転がり出て来た。
「エクルー! エクルー! 早く行って! スオミが消えちゃった! スセリが待ってる。早く!」
それ以上聞かずに、エクルーは泉に飛び込んだ。
「スオミが消えたって? どうした? 何が起こった?」
グレンに抱っこしてもらっても、ジーラッハの逆立ったしっぽはなかなか元に戻らなかった。
キジローはその時、いつものように第8惑星の影でアンテナの角度を変え、波長を変え、さらにフィルターを変えながら、情報を拾おうとしていた。今日はひときわフレアが元気で、もう5時間もノイズしか聞いていない。
この間接触した時の記録から、ジンが新しくフィルタリング・システムを作ってくれたのだが、もう変更されてしまったようだ。
もう帰るか。いくらシールドをかけていても、けっこう被爆しちまった。クローズド・タイプのテトラを借りてくるべきだったかな。
その時、こめかみをなぐられたような衝撃が走った。
(キジロー!)
「ヤマワロか。加減してくれ。頭が割れる」
(すまない。このまま船で待機してくれ。エクルーがスオミを連れて飛んでくる)
「ボウズが? スオミを? 何かあったのか?」
(この間と同じパターンだ。アカデミーのものらしい船が見つかって、子供の悲鳴が聞こえた。今度はペトリから700キロのところだ。止める間もなく、スオミが船に飛んでしまった)
キジローが眉をひそめた。
「ワナじゃないのか?」
(私もそう思う。スオミは動けないらしい。おそらく心理攻撃を受けたんだろう。それで、エクルーに迎えに行ってもらった。2人を拾ったら、ペトリにワープして欲しい)
「お客さんをお連れするわけだな」
(そうだ。ワナを利用させてもらおう。探し回るより、来てもらった方が早い。君らが攻撃を受けないように、十分気をつける。だが、多分向こうもアジトが知りたいだろうから……)
「攻撃はしてこないだろうな」
(おそらくね。そのつもりで、分かりやすく逃げてくれ)
「そのまま、敵さんにペトリに乗り込まれたらどうする気だ」
年老いたミヅチが落ち着いた声で答えた。
(さて。向こうもそこまでバカじゃないだろう。どうせなら石の1コや2コでなく、数百キロの岩盤が欲しいだろう。そうすると、それなりに準備が要る)
「イドリアンの子供がさらわれる心配は?」
(さて。イドリアンでは目立ちすぎて潜入部員に使えないだろうな。向こうが欲しがるとしたらスオミとエクルーだ)
「その2人が、今、向こうの船にいるわけだな」
(……そうだ)
沈黙が落ちた。
(大丈夫。2人の方が強い。我々もついてる。そのまま待ってくれ)
ジリジリした40分が経った。
(来るぞ! 呼んでやってくれ)
ヤマワロのするどい声が聞こえた。
呼ぶって? 考えればいいのか? 声に出すのか? どこに向かって?
「ボウズ! こっちだ! ここへ来い!」
キジローの呼びかけに応えるように、ブリッジにエクルーが現れた。丸くなって何か抱きかかえている。全身でその何かを守っているようだ。顔色が真っ白で、脂汗が浮かんでいる。
「おい。大丈夫か? それはスオミか?」
肩に手をかけようとしたキジローに、「触るな!」とエクルーが切羽詰った大声で制止した。
「近頃、あんたは鋭すぎる。あんたまで”これ”を見ないでくれ!船を操縦できる状態でいてくれ」
「わかった。後は俺とヤマワロで何とかできる。お前は休め、休めるなら。スオミをどうにかしてやってくれ」
キジローが大判の毛布を2枚出してきて2人をくるんでやるとすぐに、エクルーも気を失うように眠ってしまった。
ペトリまでの帰路、何の攻撃も受けず無事に航行することができた。しかし追跡されているのは、キジローにもわかった。レーダーにもソナーにも船影はない。それでも、何かがこの船を追っている。
追っ手がまさぐる手を何度となく感じて、キジローはショックを受けた。子供の声なのに、子供らしいしなやかさも、傷つきやすさもたくましさも奪われた声。まるで終身刑の囚人もような乾いた無彩色な声。
”あ、この前来た人”
”このオジサン、キリコの父親だとさ”
”ほう。良かったな。キリコの細胞は適合したからまた会える”
”運が良かったわね。適合率は17%しかなかったのよ”
”運がいいのかねえ”
(聞くな。攪乱されるだけだ)
ヤマワロが遮った。
(操縦に集中してくれ。もうすぐ最後のワープだ。幸い、今、ペトリはイドラの影に入っている。下でカリコボが呼ぶ地点に下りてくれ)
ミヅチにオーライ、オーライと誘導してもらいながら着陸する。この先進的なんだか、アナログなんだかわからないナヴィゲーション・システムにも、近頃キジローはすっかり慣れてしまった。着陸地点には、メドゥーラとイリスが待機していた。
キジローが船内の2人を運び出そうとすると、今度はカリコボに
(触るな!)と止められた。
(ゆすらない方がいい。エクルーが場を作ってスオミがパニックに陥るのを防いでいる。引き離さないようにそっと運ぶから)
丸くなったスオミを抱きかかえたエクルーが、まるでしゃぼん玉のように宙に浮かんで船外に運ばれた。その光景は、キジローに撃たれて宙を運ばれていったキリコの遺体を否もおうもなく思い出させた。
適合率?
スオミは何を見てショックを受けたんだ?
どうして誰も彼も、俺にエクルーに触るなと言うんだ?
触れたら、何が見える?
宙に浮いた2人を、メドゥーラとイリスが診ていた。2人ともまったく目を覚ます気配がない。
「これは薬草でどうにかできるようなもんじゃないね」とメドゥーラがため息をついた。
「一晩、泉に漬けとけばいい」
イリスが瓜の仕込みか何かのように無造作に言うので、キジローはあきれた。
「なるほどそれはいい」と、メドゥーラが同意したので、さらにあきれた。
「ククリかミナトの泉がいいだろう」とイリスが指名した。
(そうだな。こういうことはやっぱりククリが得意だろう。彼女の淵なら乱流もないし)
(じゃあ、私、先に戻って用意しておくわ)
水面でククリが消えた。
「じゃあ、私たちも先に行って準備しよう」
メドゥーラとイリスも水面に消えた。
エクルーとスオミは、まだ宙に漂っている。あの手に触れたい。2人の見た物を見たい。そこにキリコのヴィジョンもあるのだろうか。俺はそろそろとエクルーの方に手を伸ばした。
(やめておけ)ヤマワロのおだやかな声がキジローを止めた。
(あんたが触れた途端、2人はシールドが破れてパニックの嵐に巻き込まれるだろう。まだ2人はそのショックに耐えられる状態にない。まず体力を取り戻さないと、悪夢に負けてしまう。あんたも一緒に3人でのたうち回ることになる。あんたやエクルーは、それでも何とか抜け出せるかもしれないが、スオミは……)
ヤマワロは言葉を切って、丸くなったスオミを見た。人間とは思えないほど小さく身体を折りたたんで、自分を守っている。顔が真っ白で生気がない。
(この子はこんなに小さいのに、色んなものを見て来ているんだ。悪夢に取りつかれれば、これまでのすべてのトラウマが増幅されて、彼女の脳裏でくり返し展開されることになる。例えば、彼女を逃がすために目の前で殺された父親の最期の姿とか)
くそっ、汚いな。こんな少女を苦しめて、情報を盗むのは不本意だ。
キジローが何も言わないのに、ヤマワロが(ありがとう)と微笑んだ。いつの間にか、キジローは表情豊かとはいえないこの巨大な両生類の気持ちを読むのに慣れてしまった。
(準備いいわ。連れて来て)
ククリの声が聞こえた。カリコボが2人を水面に運び、一瞬で消えた。
ヤマワロは、キジローの方をふり向いた。
「さて。後は女たちに任せておけばいい。君はどうする? 船でイドラに帰ってもいいが、時間がかかるだろう? サクヤが心配して双子岩のゲートに待機している。泉から帰って、事態を説明してやったらどうかね?」
キジローは頭上はるかな長老の顔を見上げた。声を張り上げたりしない。つぶやくように言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出さなくてもミヅチには届くのだ。
「俺はサクヤのところに帰っていいと思うか? つまり……俺は、あの2人とあそこにいていいんだろうか?」
(さて。いけない理由があるかね?)
くそっ、絶対に笑ってやがる。バカなことを聞いた。どうして大きなカエルに”わかっているよ”と言いたげに、温かく微笑まれなければいけないんだ。
(今回の一連の事件で、サクヤはずいぶん夢に苦しめられた。イドラに移り住んで最初の3年はほとんど寝ていないはずだ。ところが、この半年、サクヤはけっこう眠れるようになって体力も取り戻した。君の貢献だよ、キジロー。我々は、サクヤのために君が来たことを喜んでいるんだ)
不覚にも、キジローは感動してしまった。
「わかった。ありがとう。ゲートでイドラに戻る。タケミナカタはちょっと置いといてくれ」
泉の縁で、サクヤが青白い顔で待っていた。キジローを出迎えるように近づいて来たが、今回も数歩手前で立ち止まってしまった。
「ただいま」キジローが言うと、ちょっとホッとしたようにサクヤが微笑んだ。
「お帰りなさい」
「そんなに珍しそうに見ないで。普通の食べ物を2種類、組み合わせただけじゃない」
「いやしかし、その組み合わせが尋常じゃないぞ」
キジローはきゅうりのピクルスのヨーグルト和えをのせてご飯を食べているサクヤを、目を丸くして見ていた。
「おいしいのに。味見する?」
「遠慮する。何かバアちゃんのヌカヅケを思い出すな。黄土色のぬちゃぬちゃしたものに野菜を漬けてわざわざくたんとさせてさ。ヌカドコをひっくり返すのも、すっぱい野菜を食わされるのも、本当にイヤだった。でも家族の中で神社に入れるのは俺だけだったから、いつも俺がお相伴してたんだ」
「ここでも一度、ヌカドコ作ったんだよ。ゲオルグがインキュベーターに入れっ放しににてダメにしたけど」
エクルーが暴露した。
「ちゃんと攪拌台にセットしたんですよ」ゲオルグが反論した。
「あれは液体用だろ。あんな大量のスラッジがちゃんと混ざるもんか。だからこう、手を底までつっこんでだな」
「一度やってみて、その後、アームの洗浄に何時間かかったと思ってるんです」
「だからいつまでも、このうちのシェフになれないんだよ」
ゲオルグはふくれてキッチンにひっこんでしまった。
「かわいそうに」と言いながら、サクヤはくすくす笑っている。
この明るい銀髪の青年がひとりいるだけで、食卓の空気が全然ちがう。いささか不自然な組み合わせかもしれないが、キジローはこの擬似3人家族が気に入っていた。
「でも、キジローの好みのルーツがわかったな」
エクルーが分析した。
「俺のルーツだと?」
「神主とババコン。誰かさんはどんぴしゃだったわけだ」
「エクルー!」
サクヤの抗議の声を無視して、エクルーはハンガーに出ていった。
「今日もトンボと苗床やってるから。夕方にはちゃんと戻る。行って来ます」
「もう! あのコはいつも……」
サクヤは一度浮かせかけた腰を、もう一度食卓に落ち着けた。
「その腐りかけたキュウリだけじゃなくて、西京焼きと白和えも食ってくれよ。俺が作ったんだから」
「あなたが?」
サクヤが驚いて、食卓から顔を上げた。
「ゲオルグに任せると、魚が黒焦げになっちまう」
「ホント、おいしい。白和えの味付けもちょうどいいわ。おばあ様仕込みなのね」
「だからって、あんたがうちのバアちゃんに似てるとは思わないけどな」
再び顔を上げたサクヤは、キジローの顔が思いがけず近くにあったので、身体をこわばらせた。治療槽で3日昏睡して以来、キジローは一度もサクヤに触れようとしない。状態が不安定なので、有難くはあった。
「タケミナカタで流して情報を拾ってくる。それ、全部食ってくれよ」
席を立つとき、かすめそうになるくらいキジローの顔がそばに来たので、サクヤは一瞬目を閉じた。目を開いたとき、食卓には自分ひとりだった。
「みんな黄色い旗、持ったか? 5本ずつ」
グレンがイドリアンの少年たちに呼びかけた。
「持った」
「あ、6本持っちゃった」
「私、3本しかない」
ひとしきり大騒ぎして、旗が行き渡った。
「いいか。じゃあ、放すぞ。1、2、3……!」
カゴから解き放たれた黄色いトンボが一斉に湿原全体に散っていく。来春、ヤゴが育つのに適した場所を探して卵を産むために。イドリアンの子供たちがトンボを追って湿原を走っていく。トンボが卵を産む場所を見届けて、子供たちは旗を立てていく。そこが来年も水のある場所。ペトリでこのトンボと共存していた他の水生生物を移住させるのに適した場所だとわかるからだ。
グレンは小高いところで、湿原に散らばった7人のチビ達が全員ヤチマナコに落ちずにバシャバシャ走っているか見張っていた。1番にかけ戻って来たパディが文句を言った。
「旗が足りなーい」
「何度も言ったろ」グレンがたしなめる。
「トンボがしっぽを水につけた1回ごとに旗を挿す必要はないんだ。近い産卵場所はひとまとめにして1本ずつ挿すようにしないと、いくらあっても足りないだろ」
「だからパディは留守番してろって言ったんだよ」
すぐ後ろを走って来た兄のブルックが決め付けた。
「ちゃんとわかってないんだ。まだ母ちゃんのおっぱいに吸い付いて寝てるんだから」
「兄ちゃんだって怖い夢を見たとか言って、おねしょしたくせに!」
賑やかな兄弟ゲンカが始まった。2人ともしっぽが身体と同じくらいふくらんでいる。
グレンはため息をついた。
この2、3ヶ月、子供が恐ろしい夢を見る、とメドゥーラがこぼしていたのを思い出したからだ。月が砕ける夢。月の欠片が降ってくる夢。隕石による山火事。長雨と冷夏。なかには未来の深い森や花畑、雪景色の夢を見た子供もいた。それで隠しておけない、とあきらめて各集落の長を集めて、ミヅチの7人から事情を説明してもらうことになったのだ。今まで禁域だった泉が開放された。一度ミヅチと話した子供は、ゲートが閉じていても、それどころか泉から離れたところにいても、ミヅチの声が聞こえるようになってしまった。
でもグレンは、夢を見たことも、ミヅチの声を聞いたこともない。またため息がひとつもれた。
ルパに乗ったエクルーと5人のちびが、グレンの一団に合流した。
「そろそろ次のが来るだろ。次は何?」
「ヒスイヤンマ」
「へえっ。あんな速いトンボ、何十匹も集められるのか?」
グレンがにやっとした。
「精鋭部隊を送り込んだ」
「俺だって捕まえられる!」
「私だって!」
ハズされたチビ達が口々に騒ぎ出した。
その時、地面が大きく揺れて空が暗くなった。今までケンカしていたチビ達の何人かが激しく泣き出した。
「何だ? ぶつけたのか? ひっかかれたか?」
グレンが慌てて割って入ったが、ケンカのせいではないらしい。何も言えないほど脅えきっている。
泉の祠からジーラッハが転がり出て来た。
「エクルー! エクルー! 早く行って! スオミが消えちゃった! スセリが待ってる。早く!」
それ以上聞かずに、エクルーは泉に飛び込んだ。
「スオミが消えたって? どうした? 何が起こった?」
グレンに抱っこしてもらっても、ジーラッハの逆立ったしっぽはなかなか元に戻らなかった。
キジローはその時、いつものように第8惑星の影でアンテナの角度を変え、波長を変え、さらにフィルターを変えながら、情報を拾おうとしていた。今日はひときわフレアが元気で、もう5時間もノイズしか聞いていない。
この間接触した時の記録から、ジンが新しくフィルタリング・システムを作ってくれたのだが、もう変更されてしまったようだ。
もう帰るか。いくらシールドをかけていても、けっこう被爆しちまった。クローズド・タイプのテトラを借りてくるべきだったかな。
その時、こめかみをなぐられたような衝撃が走った。
(キジロー!)
「ヤマワロか。加減してくれ。頭が割れる」
(すまない。このまま船で待機してくれ。エクルーがスオミを連れて飛んでくる)
「ボウズが? スオミを? 何かあったのか?」
(この間と同じパターンだ。アカデミーのものらしい船が見つかって、子供の悲鳴が聞こえた。今度はペトリから700キロのところだ。止める間もなく、スオミが船に飛んでしまった)
キジローが眉をひそめた。
「ワナじゃないのか?」
(私もそう思う。スオミは動けないらしい。おそらく心理攻撃を受けたんだろう。それで、エクルーに迎えに行ってもらった。2人を拾ったら、ペトリにワープして欲しい)
「お客さんをお連れするわけだな」
(そうだ。ワナを利用させてもらおう。探し回るより、来てもらった方が早い。君らが攻撃を受けないように、十分気をつける。だが、多分向こうもアジトが知りたいだろうから……)
「攻撃はしてこないだろうな」
(おそらくね。そのつもりで、分かりやすく逃げてくれ)
「そのまま、敵さんにペトリに乗り込まれたらどうする気だ」
年老いたミヅチが落ち着いた声で答えた。
(さて。向こうもそこまでバカじゃないだろう。どうせなら石の1コや2コでなく、数百キロの岩盤が欲しいだろう。そうすると、それなりに準備が要る)
「イドリアンの子供がさらわれる心配は?」
(さて。イドリアンでは目立ちすぎて潜入部員に使えないだろうな。向こうが欲しがるとしたらスオミとエクルーだ)
「その2人が、今、向こうの船にいるわけだな」
(……そうだ)
沈黙が落ちた。
(大丈夫。2人の方が強い。我々もついてる。そのまま待ってくれ)
ジリジリした40分が経った。
(来るぞ! 呼んでやってくれ)
ヤマワロのするどい声が聞こえた。
呼ぶって? 考えればいいのか? 声に出すのか? どこに向かって?
「ボウズ! こっちだ! ここへ来い!」
キジローの呼びかけに応えるように、ブリッジにエクルーが現れた。丸くなって何か抱きかかえている。全身でその何かを守っているようだ。顔色が真っ白で、脂汗が浮かんでいる。
「おい。大丈夫か? それはスオミか?」
肩に手をかけようとしたキジローに、「触るな!」とエクルーが切羽詰った大声で制止した。
「近頃、あんたは鋭すぎる。あんたまで”これ”を見ないでくれ!船を操縦できる状態でいてくれ」
「わかった。後は俺とヤマワロで何とかできる。お前は休め、休めるなら。スオミをどうにかしてやってくれ」
キジローが大判の毛布を2枚出してきて2人をくるんでやるとすぐに、エクルーも気を失うように眠ってしまった。
ペトリまでの帰路、何の攻撃も受けず無事に航行することができた。しかし追跡されているのは、キジローにもわかった。レーダーにもソナーにも船影はない。それでも、何かがこの船を追っている。
追っ手がまさぐる手を何度となく感じて、キジローはショックを受けた。子供の声なのに、子供らしいしなやかさも、傷つきやすさもたくましさも奪われた声。まるで終身刑の囚人もような乾いた無彩色な声。
”あ、この前来た人”
”このオジサン、キリコの父親だとさ”
”ほう。良かったな。キリコの細胞は適合したからまた会える”
”運が良かったわね。適合率は17%しかなかったのよ”
”運がいいのかねえ”
(聞くな。攪乱されるだけだ)
ヤマワロが遮った。
(操縦に集中してくれ。もうすぐ最後のワープだ。幸い、今、ペトリはイドラの影に入っている。下でカリコボが呼ぶ地点に下りてくれ)
ミヅチにオーライ、オーライと誘導してもらいながら着陸する。この先進的なんだか、アナログなんだかわからないナヴィゲーション・システムにも、近頃キジローはすっかり慣れてしまった。着陸地点には、メドゥーラとイリスが待機していた。
キジローが船内の2人を運び出そうとすると、今度はカリコボに
(触るな!)と止められた。
(ゆすらない方がいい。エクルーが場を作ってスオミがパニックに陥るのを防いでいる。引き離さないようにそっと運ぶから)
丸くなったスオミを抱きかかえたエクルーが、まるでしゃぼん玉のように宙に浮かんで船外に運ばれた。その光景は、キジローに撃たれて宙を運ばれていったキリコの遺体を否もおうもなく思い出させた。
適合率?
スオミは何を見てショックを受けたんだ?
どうして誰も彼も、俺にエクルーに触るなと言うんだ?
触れたら、何が見える?
宙に浮いた2人を、メドゥーラとイリスが診ていた。2人ともまったく目を覚ます気配がない。
「これは薬草でどうにかできるようなもんじゃないね」とメドゥーラがため息をついた。
「一晩、泉に漬けとけばいい」
イリスが瓜の仕込みか何かのように無造作に言うので、キジローはあきれた。
「なるほどそれはいい」と、メドゥーラが同意したので、さらにあきれた。
「ククリかミナトの泉がいいだろう」とイリスが指名した。
(そうだな。こういうことはやっぱりククリが得意だろう。彼女の淵なら乱流もないし)
(じゃあ、私、先に戻って用意しておくわ)
水面でククリが消えた。
「じゃあ、私たちも先に行って準備しよう」
メドゥーラとイリスも水面に消えた。
エクルーとスオミは、まだ宙に漂っている。あの手に触れたい。2人の見た物を見たい。そこにキリコのヴィジョンもあるのだろうか。俺はそろそろとエクルーの方に手を伸ばした。
(やめておけ)ヤマワロのおだやかな声がキジローを止めた。
(あんたが触れた途端、2人はシールドが破れてパニックの嵐に巻き込まれるだろう。まだ2人はそのショックに耐えられる状態にない。まず体力を取り戻さないと、悪夢に負けてしまう。あんたも一緒に3人でのたうち回ることになる。あんたやエクルーは、それでも何とか抜け出せるかもしれないが、スオミは……)
ヤマワロは言葉を切って、丸くなったスオミを見た。人間とは思えないほど小さく身体を折りたたんで、自分を守っている。顔が真っ白で生気がない。
(この子はこんなに小さいのに、色んなものを見て来ているんだ。悪夢に取りつかれれば、これまでのすべてのトラウマが増幅されて、彼女の脳裏でくり返し展開されることになる。例えば、彼女を逃がすために目の前で殺された父親の最期の姿とか)
くそっ、汚いな。こんな少女を苦しめて、情報を盗むのは不本意だ。
キジローが何も言わないのに、ヤマワロが(ありがとう)と微笑んだ。いつの間にか、キジローは表情豊かとはいえないこの巨大な両生類の気持ちを読むのに慣れてしまった。
(準備いいわ。連れて来て)
ククリの声が聞こえた。カリコボが2人を水面に運び、一瞬で消えた。
ヤマワロは、キジローの方をふり向いた。
「さて。後は女たちに任せておけばいい。君はどうする? 船でイドラに帰ってもいいが、時間がかかるだろう? サクヤが心配して双子岩のゲートに待機している。泉から帰って、事態を説明してやったらどうかね?」
キジローは頭上はるかな長老の顔を見上げた。声を張り上げたりしない。つぶやくように言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出さなくてもミヅチには届くのだ。
「俺はサクヤのところに帰っていいと思うか? つまり……俺は、あの2人とあそこにいていいんだろうか?」
(さて。いけない理由があるかね?)
くそっ、絶対に笑ってやがる。バカなことを聞いた。どうして大きなカエルに”わかっているよ”と言いたげに、温かく微笑まれなければいけないんだ。
(今回の一連の事件で、サクヤはずいぶん夢に苦しめられた。イドラに移り住んで最初の3年はほとんど寝ていないはずだ。ところが、この半年、サクヤはけっこう眠れるようになって体力も取り戻した。君の貢献だよ、キジロー。我々は、サクヤのために君が来たことを喜んでいるんだ)
不覚にも、キジローは感動してしまった。
「わかった。ありがとう。ゲートでイドラに戻る。タケミナカタはちょっと置いといてくれ」
泉の縁で、サクヤが青白い顔で待っていた。キジローを出迎えるように近づいて来たが、今回も数歩手前で立ち止まってしまった。
「ただいま」キジローが言うと、ちょっとホッとしたようにサクヤが微笑んだ。
「お帰りなさい」
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