3月の初旬と、4月の初旬と、大地震を挟む形で、母校を訪れる機会があった。
3月は、大学のゼミの先生が定年退職を迎えられ、その最終講義を聞きに。
4月は、卒業後数年してから聴講生として参加した「アート・マネジメント講座」のOB会に。
時の経つのは早いもので、大学を卒業して既に20年を越える。
そうか、あの先生がおやめになるのか…と計算してみたら、私が教えていただいていた頃の先生は、ちょうど今の私と同じぐらいの年齢だったことがわかった。
同じ年なのに、人さまに複雑で概念的なものを教えられる先生と、いまだに自分の行く末に右往左往する自分を比べると、その達成レベルの差にため息が出る。
けっして出来の良い学生ではなく、またちょうど卒論の時期に先生が留学されていたこともあって、それほど親しくさせていただいたわけではない。最終講義も「イランのたばこボイコット運動」なんてマイナーなテーマで、今の自分とは縁遠い。同じ学年の中で、この先生のゼミに入ったのも私一人だったので、同級生の参加もいない。でも、それなりにまじめに勉学に向き合っていたあの頃の雰囲気に浸りたくなって、最終講義を受けることにしたのだった。
お茶のお稽古のあとに出かけることにしたので、そのまま着物で出かけることに。学び舎となると、柔らかものより、紬、それも渋いもののほうがふさわしい気がして、結城を着用。そして帯は、「学問を好む」といわれる梅の柄の帯を選ぶ。学生の頃は、まさかこうして着物で学校を再訪するとは夢にも思わなんだ。

ひさしぶりに訪れた大学では、いきなり通用門が工事中。入れるのか?
やっとのことで工事現場脇の入口を見つけ、工事中の埃の中、会場に進む。どうやら、学生時代に良くお世話になった南校舎を建て直しているらしい。こうして懐かしい風景も、知らないうちにどんどん変わっていくのだろうなあ・・・。

最終講義は、帝国主義時代の欧米支配への抵抗運動を、経済の観点から見直すというもので、社会人経験の年数だけはそれなりに豊富となった今の私にとっては「こんな面白いことを勉強していたのか!」と新たな発見となった。学生の頃には、自分の学んでいたことの価値なんてわからないものかもしれない。
工事中だった南校舎も、4月に訪れた時にはすっかりできあがり、その建物の中に新設されたカフェでOB会も開催された。こんなおしゃれな施設は、昔はなかったぞ。

この会に参加するのも、本当に久しぶり。メンバーが芸術関連団体やホールに勤務する人が多いということもあり、話題は震災後の芸術活動の「自粛」となった。
この自粛ムードは、発表の場をアーティストから取り上げ、下手をすると多くのアーティストが活動そのものをやめさせることにつながるかもしれない。そんな危機感をみんなが持っている。
私は、講座を受講したものの、結局アートを仕事にすることなく、鑑賞者という立場にとどまった。けれど、アートそのものに癒してもらったり、刺激を受けたりしていることは確かだ。そういう人間として、自分自身がアートに対して「自粛」するのはやめよう、できる限り、アートを楽しもう、そしてアートの必要性を行動で訴えようと思った。
この日は、寒さで例年より開花の遅れた桜がほころび始めていた。桜の花の色と相性がよいのではと思って選んだ紅花紬に竹蔵龍さんから購入した桜の花びらの帯留を合わせた。
この帯留を際立たせるには、桜柄のアイテムはふさわしくなく、シンプルなコーディネートが良いような気がしたので。

<桜の花びら帯留写真は「竹蔵龍」さんのサイトから>
3月は、大学のゼミの先生が定年退職を迎えられ、その最終講義を聞きに。
4月は、卒業後数年してから聴講生として参加した「アート・マネジメント講座」のOB会に。
時の経つのは早いもので、大学を卒業して既に20年を越える。
そうか、あの先生がおやめになるのか…と計算してみたら、私が教えていただいていた頃の先生は、ちょうど今の私と同じぐらいの年齢だったことがわかった。
同じ年なのに、人さまに複雑で概念的なものを教えられる先生と、いまだに自分の行く末に右往左往する自分を比べると、その達成レベルの差にため息が出る。
けっして出来の良い学生ではなく、またちょうど卒論の時期に先生が留学されていたこともあって、それほど親しくさせていただいたわけではない。最終講義も「イランのたばこボイコット運動」なんてマイナーなテーマで、今の自分とは縁遠い。同じ学年の中で、この先生のゼミに入ったのも私一人だったので、同級生の参加もいない。でも、それなりにまじめに勉学に向き合っていたあの頃の雰囲気に浸りたくなって、最終講義を受けることにしたのだった。
お茶のお稽古のあとに出かけることにしたので、そのまま着物で出かけることに。学び舎となると、柔らかものより、紬、それも渋いもののほうがふさわしい気がして、結城を着用。そして帯は、「学問を好む」といわれる梅の柄の帯を選ぶ。学生の頃は、まさかこうして着物で学校を再訪するとは夢にも思わなんだ。

ひさしぶりに訪れた大学では、いきなり通用門が工事中。入れるのか?
やっとのことで工事現場脇の入口を見つけ、工事中の埃の中、会場に進む。どうやら、学生時代に良くお世話になった南校舎を建て直しているらしい。こうして懐かしい風景も、知らないうちにどんどん変わっていくのだろうなあ・・・。

最終講義は、帝国主義時代の欧米支配への抵抗運動を、経済の観点から見直すというもので、社会人経験の年数だけはそれなりに豊富となった今の私にとっては「こんな面白いことを勉強していたのか!」と新たな発見となった。学生の頃には、自分の学んでいたことの価値なんてわからないものかもしれない。
工事中だった南校舎も、4月に訪れた時にはすっかりできあがり、その建物の中に新設されたカフェでOB会も開催された。こんなおしゃれな施設は、昔はなかったぞ。

この会に参加するのも、本当に久しぶり。メンバーが芸術関連団体やホールに勤務する人が多いということもあり、話題は震災後の芸術活動の「自粛」となった。
この自粛ムードは、発表の場をアーティストから取り上げ、下手をすると多くのアーティストが活動そのものをやめさせることにつながるかもしれない。そんな危機感をみんなが持っている。
私は、講座を受講したものの、結局アートを仕事にすることなく、鑑賞者という立場にとどまった。けれど、アートそのものに癒してもらったり、刺激を受けたりしていることは確かだ。そういう人間として、自分自身がアートに対して「自粛」するのはやめよう、できる限り、アートを楽しもう、そしてアートの必要性を行動で訴えようと思った。
この日は、寒さで例年より開花の遅れた桜がほころび始めていた。桜の花の色と相性がよいのではと思って選んだ紅花紬に竹蔵龍さんから購入した桜の花びらの帯留を合わせた。
この帯留を際立たせるには、桜柄のアイテムはふさわしくなく、シンプルなコーディネートが良いような気がしたので。


<桜の花びら帯留写真は「竹蔵龍」さんのサイトから>
濃い色のお着物も、紅花の透き通るような優しい色のお着物も、よくお似合いですね
芸術活動の自粛は、今回は停電の問題も大きかったのかなと思うものの、自粛することで何のメリットがあるのかと考えると、疑問に思わざるを得ません。「生きるのに必死な人がいる一方で、芸術を楽しむなんて(不謹慎)」という考え方が日本を支配しているとしたら、悲しいですね。
計画停電の影響を考えると、上演できないということも実際にはあるのでしょう。また被災地のことを思うと、「芸術どころではない」ということも心情的には理解できます。でも、生活とアートを切り離して議論するのも無理があるのではないかと。震災で傷ついた心をいやす力もアートにあはあるのでは。
また、今回の震災は、過度に物質的なものに頼ることから、精神的なものを大事にすることに、人々の価値観が大きく変わったような気がしています。であればこそ、アーティストの活動をもっと尊重する必要があるようにと思うのです。