9月8日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.200.402.433.25です。
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礼拝説教 使徒11:11~18「命を与えてくださる方」 2024.9.8
「イエス・キリストを信じる人は前に出て来てください。」このような呼びかけがあって、私は前に出て行きました。今から約50年前のことです。高校1年生のクリスマス、教会に行って2日目でした。2人の姉妹と共に、着替えて、礼拝堂の前にあるお風呂に入り、洗礼を受けました。どうして前に出て行ったのだろうか。今でもよく分かっていません。何か大きな力に導かれたような思いがありました。教会に行って2日目ですから、キリスト教のことは何も分からない状態といってもいいと思います。洗礼を受けた後、何か、うれしい気持ちだったと思い出すことができます。この時から、約50年後に、今私は瀬戸永泉教会の牧師として、礼拝で説教を語っています。振り返ってみると、今までいろいろなことがありました。悲しいことも辛いことも、どうしていいのか分からない時もありました。それでも神は、この私をこのように導いてくださったのです。
洗礼を受けた喜び、ここにいる皆様も、それぞれの時に、それぞれの場所で、洗礼を受けたのです。(申し訳ないですが、これからの人もおります。)その時を思い出すことができると思います。洗礼を受けた後、どのような気持ちだったのでしょうか。神に愛されている。イエス・キリストの十字架によって、私の罪は赦された。いつか自分の人生を終える時がやって来ます。その時には、神の御手にすべてを委ねることができているのでしょうか。神の国への期待と、復活の命への希望を持っていくことができるのでしょうか。皆様1人1人に、洗礼を受けた時の、救われたことを思い出して欲しいと思います。神の御手によって導かれて、神の救いに預かることができているのです。大いなる喜びです。その喜びをもう一度、思い出して欲しいのです。
考えてみれば、ユダヤ人ではなく、異邦人の私たちが、当然のように洗礼を受けるということは、使徒言行録の時は当たり前ではありませんでした。今日の聖書の箇所は、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことをエルサレムの教会が承認した内容が書かれてあります。ペトロによって、異邦人にもイエス・キリストの福音が伝えられ、異邦人が、イエス・キリストの十字架を信じて、洗礼を受けているのです。
実は、それまで洗礼を受けたのはユダヤ人だけでした。異邦人はまだ受けることができなかったのです。それが使徒10章で、異邦人への伝道が始まっていきます。その働きは、神ご自身が天使を送ってしてくださっています。まず、異邦人への導きがありました。次に、ペトロに、イエス・キリストの福音が異邦人にも伝わっていくために、幻を見せます。その幻は、ペトロの目の前に、食べてはならない動物たちが用意されていました。天使は、ペトロに「この動物を屠って食べなさい」といいます。ペトロは当然のように「私は、律法で禁じられているものは食べることはできません。今まで一度も食べたことはありません。だから、食べることはできません」と答えています。すると、天使は「神が清めたものをけがれたものといってはいけない」といいました。このようなことがペトロに3度も起ったのでした。それは、旧約聖書のレビ記11章にある清いものと汚れたものに対する規定がずっと、ユダヤ人によって守られてきました。それが、イエス・キリストの十字架によって、破られる時が来たことを意味しています。
天使は、ペトロと異邦人を丁寧に導いて、出会わせています。ユダヤ人であるペトロが異邦人を受け入れていきます。それまで、ユダヤ人は異邦人と交際することも訪問することは許されていませんでした。それが、ペトロが見た幻によって、その壁が壊されて、家に招いたり、招かれたりしています。ぺトロはこのようにして、天使の導きによって、異邦人と出会い、イエス・キリストの福音を語り、神のみ言葉から説教しています。すると、突然に、異邦人の上に聖霊が降っていくのです。
使徒11:19を読んでみると、ステファノの事件をきっかけにして起ったキリスト者への迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きましたが、ユダヤ人以外の誰にもみ言葉を語っていなかったと書かれてあります。それが、ローマ人コルネリウスの伝道をきっかけに、異邦人の伝道が本格化していくのですが、そのためには、エルサレム教会の承認を得る必要がありました。そのために、コルネリウスらの伝道が終ったペトロは、エルサレムに戻り、教会の人々に、異邦人伝道のことを伝え、そして承認を得る必要があったのです。ユダヤ人キリスト者は、それまでユダヤ教徒として割礼を受けて、律法を守って来ました。ユダヤ人キリスト者にも、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。ここで問題を提起したのはヘブライ語を話すユダヤ人でした。この時に、多くギリシャ語を話すユダヤ人は迫害のために、エルサレムを離れていたからです。そのヘブライ語を話すユダヤ人でも、割礼を受けることが必要を考えていた人たちでした。ペトロの異邦人伝道のことを聞いた教会のその人たちはある問題を感じた人々がいました。
それまで、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わったことではありませんでした。その大きな問題というのは、割礼を受けていない者たちの所に行って、一緒に食事をしたということです。ヘブライ語を話すユダヤ人は、それまで厳格に、自分自身が割礼を受けて、律法を守って来ました。長い伝統といいますか、そのようなことをずっと守って来たのです。それが、神に従う者として、当然の歩みと信じていました。ペトロは教会の代表者なのに、その習慣を平気で破るということは何事かということになっています。
この割礼を受けたユダヤ人キリスト者の批判に、ペトロは割礼の意味や律法の意味を語り、彼らと論争をすることはありませんでした。ここでペトロが語るのは、神が、イエス・キリストの福音を伝えるためにしてくださった神の御業そのものです。あった事実です。使徒2:1~4で、起った聖霊降臨の日です。
使徒2:1~4
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
五旬祭の時でした。イエス様の弟子たち一同が1つになって集まっていました。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、弟子たちが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、1人1人の上にとどまったのです。聖霊降臨は突然に起りました。このことによって、イエス様の弟子たちに、イエス・キリストの福音を理解することができるようになり、教会が誕生しました。この使徒2:1~4の聖霊降臨の時は、突然、やって来ました。弟子たちの意志ではなく、人間の意志ではなく、神の意志によって、一方的に神によって行われたものです。この出来事に対して、弟子たちは何もいうことはできません。神の行った事実だけを受けるしかないのです。この聖霊降臨の出来事が、弟子たちを強くしました。教会を誕生させました。弟子たちは、初めて、イエス・キリストの福音を知ることができました。教会に集っていたユダヤ人キリスト者たちは、この聖霊降臨の出来事を思い出していたのでしょう。
ペトロはコルネリウスとその家族に、すべての者を救う神の言葉を語っていました。ペトロが話しているうちに、聖霊が、ペトロたちが経験した最初の聖霊降臨の時と同じく、彼らの上に降ったのです。この時に、ペトロは「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたは聖霊によって洗礼を受ける」といっておられたイエス様の言葉を思い出しています。このようにイエス・キリストを信じるようにしてくださったと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私たちのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができるでしょうか。
使徒10:44~45
ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
ここに異邦人の上に聖霊が降った様子が描かれています。ここにはペトロと一緒に割礼を受けている信者もいたことが分かります。そして、異邦人の上に聖霊が注がれているのを見て、大いに驚いているのです。この言葉を聞いた割礼を受けたユダヤ人キリスト者たちは、静まりました。あった事実を受け止めるしかないのです。神の行ったことの前に、静かにするしかなかったのです。そして、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったといって、神を賛美しています。このようにして、異邦人伝道がエルサレム教会で承認されていくのです。ここから本格的な異邦人伝道が始まっていきます。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと伝わっていくことをみてきました。エルサレム教会で、異邦人への伝道の承認が行われていく、これから本格的な異邦人伝道、すべての人々への伝道が始まっていきます。その流れで、日本にも福音が伝えられて、教会が誕生し、多くの人々が教会に加わっていくことができていきました。これからも、イエス・キリストの伝道が、この教会を通して行われていきます。1人でも多くの人々が、この神の救いに預かることができますようにと祈り願います。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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