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10月2日の祈祷会の内容です。

2024-09-28 20:08:00 | 日記
祈祷会     士師記11:21~40「士師エフタの娘から」    2024.10.2

士師エフタの話は、士師記10:8~12:7までです。いつものようにイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ってしまいました。バアルや先住民の神々を拝んでしまったのです。主は怒り、敵としてアンモン人を送りました。アンモン人の支配によって、イスラエルの人々は18年間も苦しめられることになります。イスラエルの人々はその苦しみの中で、主に助けを求めて叫びます。主は、イスラエルの苦しみをみるのにしのびなくなり、士師としてエフタを送ります。エフタの境遇は悲しいものでした。ギレアドの人エフタは勇者でした。エフタは遊女の子でした。父親はギレアドといいます。ギレアドの妻も男の子を産みました。その子どもたちが成長していくと、エフタに「あなたは、よその女の産んだ子だから、私たちの父の受け継ぐものはない」といって、エフタを追い出してしまいます。エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に身を落ち着けました。そのエフタのもとにはならず者が集まり、エフタと行動を共にします。おそらく、近隣の村々を襲い略奪などを繰り返していたと考えられます。

 しばらくすると、アンモン人が攻めてきます。その脅威の中で、ギレアドの長老たちは、エフタを連れ戻し、アンモン人との戦いに勝つためにギレアドの全住民の頭になってくださいと願います。エフタは承知し、ギレアドの人々は、エフタを自分たちの頭とし、指揮官として立てます。エフタはアンモン人の王と交渉しますが、決裂して、戦うことになりました。エフタは、ギレアドのミツバからアンモン人に向かって兵を進めます。この時に、エフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰る時、わたしの家の戸口から出て来る者を主のものとします。わたしはその者を、焼き尽くすささげものといたします」と。こうして、エフタは進んで行き、アンモン人と戦って行きます。主はアンモン人をエフタの手に渡します。エフタはアンモン人を徹底的に撃ちます。アンモン人はイスラエルの人々に屈服しました。エフタが、アンモン人との戦いに出る前に、主に誓いを立てました。エフタにとって、命をかける戦いになると感じていたのでしょう。自分の命が無事に帰って来ることができないことも考えていたと思います。自分がアンモンとの戦いに勝利して、無事に家に帰ることができた時に、わたしの家の戸口から出て来る者を主のものとする、エフタは自分の誓いの意味を深く考えていなかったと思います。命をかけた戦いですから、この時、エフタは、家の召使が誰かを想像していたのでしょう。しかし、エフタの主への誓いは、悲しい結果を産むことになります。

 エフタがミツバにある自分の家に帰った時、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出てきました。彼女は一人娘で、他に息子も娘もいなかったのです。エフタはその娘を見ると、衣を引き裂いて、「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しのつかない」といいます。娘は「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから」といいます。続けて「わたしにこうさせていただきたいのです。2ケ月の間、わたしに自由の時間をください。わたしは友達と出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです」といいます。エフタは「行くがよい」といって、娘を2ケ月の間去らせます。娘は友達と共にでかけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しみました。2ケ月が過ぎて、娘は父エフタのものに帰って来ると、エフタは立てた誓いのどおりに娘をささげるのです。娘は男性と関係を持つことがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができたと書いています。来る年も来る年も、年に4日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの娘の死を悼んで、家を出るというものです。

 エフタとその娘の話は、このように悲しい結果として終りました。エフタのこの誓いをどのように考えればいいのでしょうか。最初から、そのような誓いをしなければよかったということもできるでしょう。エフタの誓いは、主にささげるものを人間と考えていました。動物にすればよかった。牛や羊ややぎでもよかったではないかと思います。でも、エフタは敵との戦いで、勝利を願う時に、何もなしで誓うことはできないと判断したのだと思います。エフタにとって、一番大切なものと交換することによって、自分の誓いが主によって聞いてもらえると思ったのでしょう。何もなしでは話にならないと判断したと思います。しかし、旧約聖書の考えでは、エフタは娘をささげなくてよかったのです。
申命記12:31
あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。

では、どのようにすればよかったのでしょうか。レビ記27:1~8には、もし、人間そのものをささげたい場合には、その評価額として金銭を神のみ前にささげるようにと定められています。このような神の律法をエフタは知らなかったのでしょうか。そうだとしても、エフタを責める気持ちは私にはありません。エフタの深い悲しみを思うからです。自分の誓ったことが娘の死につながったということになってしまいました。このエフタの悲しみを通して、私は主の悲しみを思います。それは、イエス・キリストの十字架の死を考えるからです。
ローマ3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 このように、主はその独り子イエス・キリストを十字架につけてくださいました。それは、私たちの罪の赦しのためでした。私たちの罪の赦しは、主の行為によって、無償で、受けることができているのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。エフタの主への誓いから、一人娘をささげることをみてきました。エフタは自分の行ったこと深く後悔したと思います。深い悲しみに落とされました。このエフタの悲しみから、私はあなたの御子イエス・キリストの十字架のことを思いました。この時のあなたの深い悲しみを忘れることのように願います。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)



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