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たいした鉄道マニアでもないのに、どうしてそんなに豊橋鉄道に詳しいのか?[種明かし]【加筆】

2024-10-17 15:23:05 | 日記

前回の記事で

豊橋鉄道の市電と渥美線の車輛の型式を

知ったかぶりして書いた[種明かし]

しておこうと思います。

 

まず、私にとって豊橋鉄道は

 

昭和39年、豊橋市立福岡小学校1年生の時の秋の遠足が

当時、市電(路面電車)の支線の始発駅だった”柳生橋”電停から

貸切車両で吉田城にあった動物園までの移動に使ったのがあまりに楽しくて

(ただ柳生橋までどうやって行ったのかは記憶なし

 

柳生橋から市電で動物園に行けることを覚え

翌週、すぐに家の近所の洟垂れ小僧達を引き連れて

1.2km離れた柳生橋まで歩いて向かい

 

市電に乗り、新川電停で本線に乗り換えて動物園まで行き

帰りは豊橋駅に出て丸物百貨店の前を歩いていたところ

 

たぶん仕事帰りだった担任の竹村先生(女)を見かけ

喜んで声をかけたところ

 

「あら長坂君、お母さんと来たの?」と問われ

「ううん、自分たちだけで来た動物園行ってたんだよ」と自慢げに答えたところ

 

先生は驚愕して大慌て

その後、家まで連れていかれたのか覚えていませんが

 

翌日、学校に登校すると

校長室に連れていかれて校長先生直々大目玉

 

実は、父親が当時市役所に勤めていて

市役所は吉田城の隣にあったこともあり

幼稚園児の頃から母や姉、兄と何度も訪れていて

勝手知ったる場所だったので

『なんで怒られちゃったのかなぁ?』と合点がいきませんでしたが

 

 

(因みに、生家から豊橋駅までが2km、市役所まで3kmで

普段家族で外食や駅前の百貨店&繁華街へ出る時は路線バスに乗っていましたが

隣の小学校の校区だったので”遠い”との印象はありませんでした)

 

そんな出来事があったため

市電には特別な思い出があり

 

渥美線も最寄りの路線バスの停留所のすぐ裏を走っていて

当時、路線バスは伊良湖岬行、太平洋側の表浜行、ニチボー行、トピー工業行と

5・6分間隔であったため

駅前へ出る時にあまり利用することはありませんでしたが

ごくごく普段の生活の中で目にする交通機関でした。

 

特に、中学校を卒業して豊橋を離れてからは

帰省してもほとんど利用する機会もなく、あまり気にしていませんでしたが

 

駅前の再開発で渥美線の新豊橋駅が取り壊されると聞いて

愛車のMini Cooperで写真を撮りに行った時の一枚

【平成20年3月14日撮影】

 

更に、レトロ感満載で大好きだった渥美線の柳生橋駅も取り壊されると聞いて

またまた急いで写真に残してきました。

【平成21年2月21日撮影】

これが平成20年代まで残ってたんですよ~

 

 

そんな出来事もありましたが

またまたほぼ”市電&渥美線”のことを忘れかけていたところ

 

ネットで豊橋鉄道100年を記念して

美術館で”市電と渥美線”展が催されることを知らされ

 

以前の記事でも書かせていただきましたが

断食センターへ向かう前に

時間をかけてじっくりと拝観し

図録も購入していたんです。

これが”種明かし” 

 

図録のなかにこれまで使われてた車両の型式や年代

写真まで載せてくれてたので

わかっちゃったって訳です。

 

 

豊橋という土地は

元々が東海道の城下町(吉田藩)で江戸側から数えて34番目の宿場町

 

『吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が』と詠われたところ

(飯盛り女が多かったらしいです。

 

その後、明治維新で近代的な軍隊の整備が進められ

明治17年に名古屋で創設されて第三師団下の豊橋陸軍歩兵第18連隊が

日露戦争後には、陸軍第15師団が増設されることなり

誘致合戦の結果、豊橋への駐屯が決まり

 

師団の司令部が置かれ、高師原、天伯原の広大な台地が

満州の地形に似ていたことから演習場が作られ

 

当時人口4万人ほどの土地に

軍関係だけで2万人が加わって地域経済が活性化してインフラの整備も進み

豊橋のまちは一気に近代化されたんだそうです。

 

(昭和18年には、三河湾の洲を埋め立てて造られた大崎島が

海軍の航空隊の基地となって飛行場もあったんです。

 

そのひとつが1924年に開業した渥美線と市電

 

豊橋駅から北東約1.5kmの吉田城跡に陸軍歩兵第18連隊

 

豊橋駅からほぼ真南2.5kmの高師原に

日露戦争の際に大陸で編成された第十五師団を置くことが決定され

約50万坪の敷地に多くの施設がつくられ

第15師団司令部・歩兵第69連隊・兵器支廠・騎兵第19連隊

騎兵第25連隊・騎兵第26連隊・野砲兵第21連隊・輛砲兵第15大隊

衛生病院・衛生監獄・憲兵隊本部・豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校

関連した軍需工場も設置され

 

などと

 

渥美半島の先端伊良湖には

陸軍研究所伊良湖試験場があり

 

更には現伊勢湾フェリーで鳥羽に渡り

伊勢神宮への参拝客を取り込む計画もあり

 

渥美線は国有化して伊良湖の手前”福江・堀切”まで延伸する予定だったんです。

(昭和までレールと電線はないものの、三河田原の先まで線路跡は残ってました)

 

それらの施設や兵舎(兵隊)の交通手段としての

需要が見込まれ計画され作られたもの

 

結局終戦前年の1944年に戦況の悪化と資金難から

三河田原駅以西は不要不急路線として休止されてしまいました。

 

また、人口が流入してきたことから

廓の需要も激増し

江戸時代から東海道の旅人で栄えた宿場町の札木・上伝馬の遊郭では

賄いきれなくなり(一説には性病が蔓延したの移転の理由)

吉田城(歩兵第18連隊)からほぼ真東約2kmの東田に遊郭を移転させ

〔渥美線の小池駅近くにも小池遊郭がありました〕

 

更には競馬場(現競輪場)もあり

それらへのアクセスとして市電が計画され設立されたようです。

 

そんな背景もあって

展示されている資料を見ながら改めて豊橋の生い立ちを再認識

 

 

 

↓ 黄色い部分が陸軍歩兵第18連隊

 

 

 

 

と言うことで、もしかしたら豊橋っ子がブログをのぞくこともあるかもと

 

ご参考までに

図録を貼り付けておきますね。

↓ 第15師団を中心に設置された高師の施設

歩兵第69連隊(現:愛知大学)

第15師団司令部(現:愛知大学

兵器支廠(現:南部中学校、栄小学校)

騎兵第19連隊(現:福岡小学校)

騎兵第25連隊(現:盲学校、以前は製綱工場も)

騎兵第26連隊(現:ユタカ自動車学校 それ以前は紡績工場)

野砲兵第21連隊(現:時習館高校)

輛砲兵第15大隊(現:豊橋工業高校、聾学校)

衛生病院(元国立病院)

衛生監獄(元紡績工場?)

 

 


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