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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑤Vava’uの続きとその後】

2024-09-25 15:14:13 | 日記

さて、前の記事【その④突然Vava'u島へ転勤辞令】

の続きをさせていただこうと思ったところ

 

いつもながらの、その時の気分で思いつくまま書き記してしまうため

読み直してみるとあまりに適当すぎて大汗

 

前の記事を訂正したらいいのですが

なんせ画像貼りまくりで、文字数の限度を超過してるため

加筆するのは到底無理

 

と言うことで

『まあ、ほとんど人目に触れることもないからこれでいいか』

と思いつつ

とりあえず順序が逆となってしまいましたが

Vava’u島と登場する場所の位置関係をもう少し説明させていただきますね。

 

↓ こちらがVava’u諸島の地図


(Google Mapでは発音がいい加減なので間違いだらけ、
Laimatuaはレイマツア、Hungaはフンガなんですよ)
 
航空写真だとこんな感じ

ノッペリした首都のあるTongatapu島とは全く異なる
そこそこ起伏のある地形で
それもあって深い入り江や複雑な半島が連なる島なんです。

とはいえ、所詮隆起サンゴできた島なので高い山はなく
↓でもおわかりのとおり
サンゴ石と赤土に覆われた土地なので
緑の部分もしっかりと畑として開墾されています。
(ココナッツ、バナナ、パイナップル、ヴァニラ、カヴァ、タロ芋など栽培)


 
Vava’uの中心Neiafuは、
最も深い入り江の奥深く、
いくつもの半島に囲まれ風や波に影響されない場所にあります。

↓のほぼ一番下がParadise Hotel
上の方の埋め立てられた場所が港で
水産局のVava’u支局は”Tro”の位置
Bellavista Cafeの下の写真スポットが住居の掘っ立て小屋のあった場所
これは現在の航空写真なので
観光地らしくCafeや家も沢山ありますが
1982年当時は、レストランと言えばParadise Hotelのみ
あとはスタンド式のTake awayというテイクアウトの店がある程度でした。
 
海岸に沿って浮かんでいるのが世界中から集まった
太平洋横断中のヨット
 
Neiafuと飛行場、近隣のBeachを結ぶ主要道路以外は
こんな↓感じ
 
これはVava’u本島の西端の村 Tu’anukuにあるClarkのLangimaの家へ
バイクで遊びに行く時に通過した坂のひとつ


これは青年海外協力隊の最初の2年の終わりごろ

クリスマス休暇を過ごすために飛行機で訪れた時の写真

右下がNeiafuで、右側に続く半島の先にParadise Hotelがありました。

 

これは、前の記事でもちょっとだけ紹介した

年に一度、王様が来島した時の様子

年に一度の”Royal Agriculture show”という催しで

王様に農作物や水産物の出来を見てもらうもの

この時はほとんど全島から人々が集まるお祭りのようなイベントなんです

仲良しだった警官や地元の人々

 

こちらは、日系人のMikioという人物が

TongaとNew zealand, Australiaを結ぶ貨物船

Warner Pacific Lineという船会社のVava'u支店長をしていて

自宅では奧さんがMikio’s Guest Houseという宿を経営していたのですが

奧さん(左端)が料理上手で

素泊まりではなく、1泊2食付きだったため

NZやOZの年金暮らしの長期滞在者に大人気で

いつもほぼ満室の宿でした。

右側が末娘のEiko

私が任期を終えて帰る前の1986年頃には

コテージを何棟が建ててましたが

現在のGoogle Mapsでは宿として出てこず

Mikioや奧さんも亡くなってGuest Houseをやめちゃったのかも

こんな感じで宿泊者もBuffet Styleで食べられました。

この日は、Paradise HotelでもCarpenterとしてオーナーの手伝いをしていたPita

たしか、この日は誕生パーテイーのFiestで

子豚の丸焼きから伊勢海老にその他もろもろ大ご馳走が並びました。

 

 

ある日水産局支局で働いていると

現地の子連れの家族が私と話したいと訪ねてきて

これ(天然の黒真珠)を誰か買ってくれないだろうかとの話

実は、1980年頃、日本の田崎真珠が

Vava'u島で黒真珠の養殖を試みたことがあって

(隣国のFijiやTahitiでは黒真珠養殖に成功してた)

結局は定住して養殖に携わるスタッフが得られず

断念してしまったのですが

 

たぶん生き残った黒蝶貝から獲れたものらしいもの

 

たったひとつだけなのと、あまりに小ぶりなのと

ビール代でキチキチの貧乏協力隊員だったので

お断りしちゃいました。

 

続いては、客船が来たときの

ハンディクラフト市場の様子

私が赴任していた1980年代前半は

普段の生活ではラジオ(国営のRadio Tongaのみ)は全国民が聴いていて

そこで流されるポリネシアンな曲と歌

あとは、ニュースと公報、それとOngo Ongoという伝言番組があり

離島には電話など繋がらない時代だったので

離島と首都のTongatapuとの連絡といえばそのOngo Ongoのみ

 

『どこそこ村のナニガシが来週のOlovaha(フェリー)に乗るから出迎えに来て』

『〇日の〇時に無線連絡するから無線局で待ってて』などなど

個人情報ダダ洩れどころか筒抜け(笑)

 

Vava'uも町の中心に無線局があって

1台だけの無線で本島との連絡を取るために

毎日朝から夕方まで大行列で

私は、日本人と話さなくても全く気にならなかったので

一度も無線を使ったことがありませんでした。

 

あと、雑貨屋のOtoの二階に島で一軒だけの映画館があって

時々Muuliと観に行ってましたが

 

なんせ世界中を回ってきたFilm

映写機が時々止まると強いライトでFilmが溶けるのも日常茶飯事

 

1本まともに観れないのが普通でした

 

そうそう、Vava’uだけじゃなく首都のNuku’alofa でも

古い映画館は木製のベンチが座席だったからか

南京虫だらけ

 

映画鑑賞は貴重な娯楽で楽しかったけど

虫刺されで痒くて大変でもありました(笑)

 

あと、たまーに教会裏の広場の木を使って

大きな布をスクリーンがわりに張って

そこで入場無料の映画会もありましたが

 

その時は、それこそ全島から人が集まったのかと思うほどの盛況ぶりで

楽しかったですね~

 

おっと、またまた話が横道にそれてしまいましたが

そんな訳で普段の夜の生活は

家でラジオを聴く程度だったので

 

内職があたりまえ

みんな家でタパクロスや籠を作って観光客に売っては

生活の糧を得てましたね。

 

そしてVava'uに転勤して2月が経過した1982年10月後半

本島Tongatapuに出張するようにとの連絡があり

 

運悪く定期フェリーのOlovahaがNZでDock入りしていたため

古い鮪延縄漁船を改造した旅客船に乗り込んだのですが

(↓ 元は水産局で使っていた鮪延縄漁船のEkiaki号)

Vava’u島のNeiafuを出航してから

途中Ha’apai諸島の島々に立ち寄ってから数日かけて

首都のNuku’alofaに到着するもので

 

船を推進させる主機エンジン以外はほとんど壊れていて

船内の照明は勿論、レーダーも無線機も航海灯もつけずに

サンゴのリーフだらけの海でも夜間航行してて

それはそれはスリル満点の船旅でした

(そんなEkiaki号も1984年頃にハリケーンが直撃した時に座礁してしまいました。。。

 

実は、首都のNuku’alofaに呼ばれた理由が

当時、Tongaには青年海外協力隊員が4名居たのですが

2名が昭和56年度3次隊の私と同期の漁具漁法隊員

そして残りの2名が昭和54年度2次隊の冷凍機隊員の桜井研次さんと養殖隊員の倉松さん

その二人が任期満了で帰国するため

 

その二人の送別会と

Vava’u転勤まで暮らしていた水産局横の家から

桜井研次さんが暮らしていた街中のGovernment Houseへの引っ越しのため

 

↓これは、客船を眺めてる桜井研次さん

服装からしてたぶん7月頃(Tongaの冬)に

水産局に供与された小型のFRP漁船で週末に沖の無人島へ遊びに行った時のもの

正面の船は、オーストラリアを起点に英国のクルーズ会社P&Oの運航で

定期南太平洋クルーズに就航していた

当時は名の知れた客船S/S”Oriana”号(1959年建造)

その後フローティングホテルとして売却され1986年には別府にあった時期もありました。

 

そしてすぐさま送別会が催され

桜井さんの家の隣の同期隊員の部屋に

水産局の同僚が食べ物を持ち寄り(ビールは日本人が提供)

無礼講でのドンチャン騒ぎ

桜井さんは、当時トンガ語が一番上手で

兄弟のように慕っていたカウンターパートもいて

とっても楽しい歓送会となりました。

 

その後、桜井さんの暮らしていたGovernmemt House #39 (Fika Tolu Hiva)に

Tongatapuに置いておいた私物の荷物を運びこみ

今度は、外航貨物船でVava'uへ戻ることとなったのですが

 

桜井さんがVava’u島でたった一人の日本人で苦労してると同情してくれたようで

港まで見送りに来てくれて

手作りのニンジンでキンピラと卵焼きとご飯のお弁当を手渡してくれて

ありがたかったですねぇ

 

その後、またしばらくVava’uで面白おかしく勤務していたところ

11月中旬、Nuku’alofa の本局に戻るようにとの辞令

 

実は、その時が前述した王様が島々を周るイベントの時で

Vava’u島のあと、Ha’apai諸島に立ち寄ることとなり

定期船のフェリーは王様専用で使われていたため

(↓ Ha’apai諸島はほとんど砂洲のような島々で接岸できる岸壁がないため

王様は上陸用舟艇に乗り換えて上陸してました)

(↓ これは、桜井さんの送別会でTongatapuに戻る際に乗ったEkiaki号での様子)

水産局の鰹一本釣り用の漁船(Takuo)も王様のサポートで同行していたため

その船に乗り込んでの移動となりました。

 

それにしても、Vava’uでの生活はそれなりに楽しかったけど

なんせ食生活はあまり恵まれてなかったからか

その時に撮った我が身があまりにもゲソゲソでちょっとビックリ

 

Tongatapuに戻ったところ

着任早々機関長として乗船していた鮪延縄漁業練習船(Lofa)を

American Samoaで入渠することになり

 

ようするに

Dockでの仕事など経験のないJICA専門家(大滝なにがし)が

自分でこなす自信がなく呼び戻されたわけだったんです

 

まあ、私は青年海外協力隊に参加するまで

外資系船会社の工務監督見習いをしていて

入渠前のドックオーダーを作成して

入渠中は工務監督の補佐でアテンドと

まあその道のプロだったので

 

船体の洗浄から塗装

船尾管とプロペラの点検、ドックでしか整備できない

船底弁のオーダーなどを作成して見積もりを取り

造船所との打ち合わせも全て担当

 

そうしてAmerican SamoaのPagopagoを訪れた時の写真が残っていました。

 

Samoaは、西サモアを含め 火山でできた島

Tongaでは見られない急峻な山々が眩しかったですねぇ

ロープウェイで展望台に行けることを知って

ドック仕事の合間に登ってみた時の一枚(セルフィで)

なにやら慰霊塔があったので 説明書きをみてみると

ロープウェイのロープにひっかかった飛行機の犠牲者の慰霊碑でした。

American SamoaもSamoa同様、

緯度的にはTongaより相当赤道寄りのため

暑くて堪りませんでしたが、展望台は高台にあって少し楽。

↓ この写真のほぼ中央にあるのが造船所のSlip way

American SamoaにはアメリカのStar kistという缶詰会社があるため

巻き網船や鮪延縄船が獲った魚の水揚げに寄港する基地で

このアメリカの巻き網船は、小型ヘリコプターが搭載されていて

上空から魚の群れを見つけて一網打尽にしてしまうもの

 

延縄漁や一本釣りのように

餌を食べた魚だけ釣る漁法と異なり群れの全てを獲ってしまうため

資源を枯渇させてしまうんだそうです。

(二隻の巻き網船の後ろがTongaにODAで供与されたLOFA)

この時は、操業を終えてからTongaの岸壁で

機関室の主要機器

(プロペラを回すための低速ディーゼルエンジン:主機)

(冷凍機と船内の電源をまかなうディーゼルエンジン:補機(発電機))

(延縄漁の餌(冷凍サンマ)や獲った魚を保存するためのレシプロ式コンプレッサー:冷凍機)

その他、機器類のほとんどを整備してからAmerican Samoaに向かったため

それまで機械類の整備もドックオーダーしていたものを

ドック費用を極限まで抑えられるようになって

ようやく私の存在意義が認められるようになりました。

 

【またまた文字数が20,000字を超過してしまいましたので、その⑥Nuku’alofaでの生活編に続く】

↓(Nuku’alofaでの住居:Governement House #39)

 


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