シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。
1904年に初演されたこの曲は、1世紀を経た現在もなお世界各地で演奏される名曲である。同様に、世紀を超えて愛されるヴァイオリン協奏曲は他にもいくつかある。近年演奏会で頻繁に取り上げられる曲をピックアップして年代順に並べると次のようになる。
1725年ごろ
ヴィヴァルディ作曲「四季」
1775年作曲
モーツァルト作曲ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」
1806年初演
ベートーヴェン作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1810~1830年ごろ
パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
1845年初演
メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
1867年初演
ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
1879年初演
ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1881年初演
チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1904年初演
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
このうちシベコンだけが20世紀に入って書かれた曲で、あとは19世紀以前に書かれた曲である。ここで注目すべきは、パガニーニ以降のコンチェルトはすべて超絶技巧曲になっている、という点である。メンコンにしろ、ブラコンにしろ、チャイコンにしろ、曲を構成する上でヴァイオリンの超絶技巧が欠かせない要素になっている。その理由は19世紀半ばから後半にかけて世界を席巻したヴィルトゥオーソ・ブームにある。この時代、ヴァイオリンは改良されて飛躍的に機能が向上し、従来より大きな音で、より華麗なプレイが可能になった。そこへパガニーニ、サラサーテといったヴァイオリン演奏の名人が登場し、カリスマ的テクニックを披露して聴衆を熱狂させた。特に、パガニーニの演奏はアクロバティックな技巧を誇示して観客を喜ばせる傾向を持っていた。彼らはヴィルトゥオーソと呼ばれ、世界各地でコンサートを行い、そのパフォーマンスは同時代の作曲家たちに大きな影響を与えた。その結果、パガニーニ以降に書かれたヴァイオリン協奏曲は超絶技巧満載の難曲路線へと進むことになった ・・・ というわけで、パガニーニ以降に書かれた6曲を演奏の難易度順に並べ替えると次のようになる。
1位:シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
2位:パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
3位:ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
4位:チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
5位:メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
5位:ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
テクニカルな見地からいうとシベコンが最も難しい。個人的な感覚では、シベコンの難しさを100とすると、パガニーニとブラームスは90、チャイコフスキーは50、メンデルスゾーンとブルッフはせいぜい15といったところだろうか。 ・・・ と、まるで全ての曲が弾けるような口ぶりであるが、私自身は全くヴァイオリンを弾くことはできない。実はこのランキングには元ネタがあって、新交響楽団のヴァイオリニストの前田知加子さんのテキストがベースになっている。( 前田知加子さんのオリジナルテキストは こちら )
新交響楽団は東京にあるアマチュア・オーケストラで、2005年10月の演奏会でシベコンを取り上げている。前田さんは本番では第2ヴァイオリンを、リハーサルではソリストの代役としてソロ・パートを担当し、その経緯から、楽曲解説としてこのテキストを同楽団のHPに寄稿したようだ。読めばおわかりいただけると思うが、やはり実際に演奏した人の言葉は重みが違う。「8倍」とか「5倍」とか、表現が具体的で文章に説得力がある。
しかし、ここでひとつの疑問が湧く。シベコンが「ラ・カンパネラ」を上回る超絶技巧曲だとしたら、それを生み出したシベリウスはパガニーニを超える超絶技巧ヴァイオリニストだったのだろうか ・・・ というわけで、上記ランキングの作曲者をヴァイオリンの腕前順に並べ替えると次のようになる。
1位:パガニーニ
2位:シベリウス
3位:ブラームス
選外:チャイコフスキー、メンデルスゾーン(ブルッフについては資料がないので割愛)
やはりヴァイオリンの鬼神といわれるパガニーニは別格である。しかしシベリウスもまた優れたヴァイオリン奏者だった。彼は作曲家を志す前はヴァイオリニストを目指していて、ウィーン・フィルのオーディションを受けたこともある。しかし、あがり症で人前で実力を発揮することができなかったため、演奏家への道を断念せざるを得なかった。ちなみに3位のブラームスも、そこそこヴァイオリンは弾けた。でもヴァイオリンよりピアノの演奏のほうが得意だった。選外の二人は鍵盤楽器が専門で、ヴァイオリンにはあまり詳しくなかった。
ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ヴァイオリンの超絶技巧曲を書くことができるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかしロマン派の作曲家に不可能はない。彼らの表現欲求はどんな困難をも乗り越えていく。作曲家に足りない知識や技術はその友人が補った。メンデルスゾーンはダーヴィト、チャイコフスキーはコチェークと、それぞれが腕利きのヴァイオリニストを技術アドバイザーに迎えて曲を完成させている。そこそこヴァイオリンが弾けたブラームスも、作曲の過程で友人のヨアヒムに助言を求めている。今で言うところのコラボレーション作業である。ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ある日突然ヴァイオリン協奏曲を書こうと思い立ち、自分に欠ける知識と技術を友人からパクってでも超絶技巧曲を世に送り出そうと試みる。このあたりに、当時の音楽界を席巻したヴィルトゥオーソ熱の高さが感じられる。
話をシベリウスに戻そう。彼はシベコンを独力で書き上げた。パガニーニには度胸で及ばないものの、シベリウスも自分のイマジネーションをそのままヴァイオリンのパフォーマンスに置換できるくらいの腕前を持っていた。彼は誰の力も借りずにこの曲を書いた。シベコンで繰り広げられるのは純度100パーセントのシベリウス・ワールドである。そこには先輩たちの作品に見られるような時代の熱に侵された高揚感はない。この曲で聴衆が最初に目に(耳に)するのは、素っ気ないくらい平熱の世界だ。たぶんこの曲が20世紀に入ってから書かれたせいだろう。1904年の世界ではヴィルトゥオーソ・ブームは既に過ぎ去っていた。シベリウスはヴィルトゥオーソ・ブームから時間的にも精神的にも遠く離れた場所でこの曲を書いた。19世紀との隔たりは、彼の技巧に対するスタンスにも色濃く現れている。これだけ技術的に難しい曲でありながら、シベコンには「どうだ、すごいだろう。」と聴き手を煽るようなニュアンスは微塵もない。あるのは徹底した自己探求のみである。技巧はアクロバットの披歴のためではなく、エゴの発露のためでもなく、ただ、より深く曲の世界に入っていくための契機として機能している。それらはシベリウスによってひとつひとつ念入りに検証された上で配置され、そのすべてが曲中の心象風景と分かちがたく結びついている。ひとたびイメージが共振すれば、聴き手の意識はすぐにシベリウスの意識につながることができる。この内省的なアプローチは、パガニーニおよびパガニーニ・フォロワーが提出するヴァイオリン腕自慢大会的な興奮とは異なる、特別な奥行きをこの曲に与えているように思う。そしてシベコンが提出する「内省された心象風景」は、今を生きる現代人のモードに合っていて、心にうまく引っかかる。近年この曲の演奏の機会が増えた理由はそのへんにあるんじゃないかと思う。
と、この程度ならもっともらしい文章がいくらでも書ける。でも、ここから先が問題なのだ。私の場合は。もし、ここまでのテキストを読んだ人のうちの誰かに「じゃあ、具体的にどの部分の、どの技巧が、どんな心象風景とつながっているの?」と尋ねられたとしても、私はすぐには答えられない。たとえば、前述の前田さんなら、重音の左指の動きの難しさをツイスターゲームに例えてわかりやすく説明できる。でも、私には前田さんのように具体的な、一歩踏み込んだ臨場感のある説明はできない。
だって、弾けないもん、ヴァイオリン。
弾けないどころか、楽器に触ったことすらない。
技巧については言うに及ばず、である。
前田さんが取り上げた重音にしたって、私の中では「高音と低音がハモっている奏法」くらいの認識しかない。よくそれでシベコン広報部長を名乗れますね、と前田さんは驚いてあきれるかもしれない。まあ、それはないとしても、引け目は常に自分の中にある。
私ごときでは本当の意味でシベコンを理解することはできないのではないか、
やはりヴァイオリン演奏に精通する人の理解の深さは及ばないのではないか、
所詮何を書いても前田さんほどの説得力は持ち得ないのではないか ・・・・。
しかし、この日の第2楽章を聴いて状況は一変した。
ここにも重音が登場する(キョンファ盤でいうと03:49のあたり)。転調と同時に暴れ出したオケが静まって、ソロ・ヴァイオリンが悲しげなアリアを歌うところだ。
ここで一艇のヴァイオリンから二つの音が聴こえてくる。
フロントで旋律を弾いているのは神尾さんひとりで
オケのヴァイオリン・パートは後ろに回っている。
でも、どういうわけか、聴こえてくる音が二つある。
重音。ダブルストップ。私はヴァイオリンを弾けないけど、そういう奏法があることくらいは知っていた。キョンファ盤CDを聴きながら、この部分は重音で弾いているんだろうな、と
ぼんやりと想像していた。
しかし
実際に弾いている様子は
私の想像を超えた、マジックのようなものだった。
私の席からは神尾さんの手元がよく見える。
でもいくら目を凝らしてみても
どうしてひとつの楽器から二つの音が同時に鳴るのか
不思議でならない。
もうひとつ気付いたことがある。私の認識では、「重音」=「高音と低音がハモっている」という程度だったが、それは間違いだった。
現場の状況はもっと複雑精緻で、
二声が同時にハモるのではなく、
高音のメロディと低音のメロディのそれぞれが意志を持ったように別々に動くのだ。
まるで手品だ、と私は思った。
100年前にシベリウスが仕掛けたトリックを
神尾さんは鮮やかな手さばきで次々に再生していく。
このプレイには特別な意味がある。
私はふとそう思った。
高音と低音。光と影。
このヴァイオリンは葛藤する二つの心だ。
そう思った瞬間、この曲の全てがいっぺんに理解できた。
まるで作曲をするシベリウスの傍らに立ってその頭の中を覗いたみたいに、
一瞬のうちに、一から十まで理解できたのだ。
これなら一歩どころか、十歩も二十歩も踏み込んだリアルな文章が書ける。
というわけで、前置きが長くなってしまったが、
神尾真由子ファンのみなさん、お待たせしました。
次回は記憶のVTRを巻き戻して第2楽章のスタート地点まで遡り、時系列に沿って演奏を再現しながら、私の中で起こった変化を検証してみる。もちろん、今までよりヴァージョン・アップした文章で。フフ。
でも、その前にウォーミングアップを兼ねて初歩的なインフォメーションをひとつ。
シベコンの第2楽章の内容を簡単に表すと
00:01~00:39
プロローグ
00:40~03:12
Aメロ(長調)の1回目
03:13~04:44
Bメロ(短調)
04:45~05:35
Aメロ(長調)の2回目
05:36~06:31
Aメロ(長調)の3回目(クライマックス)
06:32~08:08
エピローグ
となる(時間はキョンファ盤による)。ごらんのように、
この楽章はAメロの循環をベースにしてBメロが挿入される三部形式である。加えて、
Aメロの循環は一周を終えるごとにより高い始点に到達するらせん構造になっている。
( 第13回へ続く )
*** *** *** *** *** *** *** ***
この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」←明日です!
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1904年に初演されたこの曲は、1世紀を経た現在もなお世界各地で演奏される名曲である。同様に、世紀を超えて愛されるヴァイオリン協奏曲は他にもいくつかある。近年演奏会で頻繁に取り上げられる曲をピックアップして年代順に並べると次のようになる。
1725年ごろ
ヴィヴァルディ作曲「四季」
1775年作曲
モーツァルト作曲ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」
1806年初演
ベートーヴェン作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1810~1830年ごろ
パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
1845年初演
メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
1867年初演
ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
1879年初演
ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1881年初演
チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1904年初演
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
このうちシベコンだけが20世紀に入って書かれた曲で、あとは19世紀以前に書かれた曲である。ここで注目すべきは、パガニーニ以降のコンチェルトはすべて超絶技巧曲になっている、という点である。メンコンにしろ、ブラコンにしろ、チャイコンにしろ、曲を構成する上でヴァイオリンの超絶技巧が欠かせない要素になっている。その理由は19世紀半ばから後半にかけて世界を席巻したヴィルトゥオーソ・ブームにある。この時代、ヴァイオリンは改良されて飛躍的に機能が向上し、従来より大きな音で、より華麗なプレイが可能になった。そこへパガニーニ、サラサーテといったヴァイオリン演奏の名人が登場し、カリスマ的テクニックを披露して聴衆を熱狂させた。特に、パガニーニの演奏はアクロバティックな技巧を誇示して観客を喜ばせる傾向を持っていた。彼らはヴィルトゥオーソと呼ばれ、世界各地でコンサートを行い、そのパフォーマンスは同時代の作曲家たちに大きな影響を与えた。その結果、パガニーニ以降に書かれたヴァイオリン協奏曲は超絶技巧満載の難曲路線へと進むことになった ・・・ というわけで、パガニーニ以降に書かれた6曲を演奏の難易度順に並べ替えると次のようになる。
1位:シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
2位:パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
3位:ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
4位:チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
5位:メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
5位:ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
テクニカルな見地からいうとシベコンが最も難しい。個人的な感覚では、シベコンの難しさを100とすると、パガニーニとブラームスは90、チャイコフスキーは50、メンデルスゾーンとブルッフはせいぜい15といったところだろうか。 ・・・ と、まるで全ての曲が弾けるような口ぶりであるが、私自身は全くヴァイオリンを弾くことはできない。実はこのランキングには元ネタがあって、新交響楽団のヴァイオリニストの前田知加子さんのテキストがベースになっている。( 前田知加子さんのオリジナルテキストは こちら )
新交響楽団は東京にあるアマチュア・オーケストラで、2005年10月の演奏会でシベコンを取り上げている。前田さんは本番では第2ヴァイオリンを、リハーサルではソリストの代役としてソロ・パートを担当し、その経緯から、楽曲解説としてこのテキストを同楽団のHPに寄稿したようだ。読めばおわかりいただけると思うが、やはり実際に演奏した人の言葉は重みが違う。「8倍」とか「5倍」とか、表現が具体的で文章に説得力がある。
しかし、ここでひとつの疑問が湧く。シベコンが「ラ・カンパネラ」を上回る超絶技巧曲だとしたら、それを生み出したシベリウスはパガニーニを超える超絶技巧ヴァイオリニストだったのだろうか ・・・ というわけで、上記ランキングの作曲者をヴァイオリンの腕前順に並べ替えると次のようになる。
1位:パガニーニ
2位:シベリウス
3位:ブラームス
選外:チャイコフスキー、メンデルスゾーン(ブルッフについては資料がないので割愛)
やはりヴァイオリンの鬼神といわれるパガニーニは別格である。しかしシベリウスもまた優れたヴァイオリン奏者だった。彼は作曲家を志す前はヴァイオリニストを目指していて、ウィーン・フィルのオーディションを受けたこともある。しかし、あがり症で人前で実力を発揮することができなかったため、演奏家への道を断念せざるを得なかった。ちなみに3位のブラームスも、そこそこヴァイオリンは弾けた。でもヴァイオリンよりピアノの演奏のほうが得意だった。選外の二人は鍵盤楽器が専門で、ヴァイオリンにはあまり詳しくなかった。
ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ヴァイオリンの超絶技巧曲を書くことができるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかしロマン派の作曲家に不可能はない。彼らの表現欲求はどんな困難をも乗り越えていく。作曲家に足りない知識や技術はその友人が補った。メンデルスゾーンはダーヴィト、チャイコフスキーはコチェークと、それぞれが腕利きのヴァイオリニストを技術アドバイザーに迎えて曲を完成させている。そこそこヴァイオリンが弾けたブラームスも、作曲の過程で友人のヨアヒムに助言を求めている。今で言うところのコラボレーション作業である。ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ある日突然ヴァイオリン協奏曲を書こうと思い立ち、自分に欠ける知識と技術を友人からパクってでも超絶技巧曲を世に送り出そうと試みる。このあたりに、当時の音楽界を席巻したヴィルトゥオーソ熱の高さが感じられる。
話をシベリウスに戻そう。彼はシベコンを独力で書き上げた。パガニーニには度胸で及ばないものの、シベリウスも自分のイマジネーションをそのままヴァイオリンのパフォーマンスに置換できるくらいの腕前を持っていた。彼は誰の力も借りずにこの曲を書いた。シベコンで繰り広げられるのは純度100パーセントのシベリウス・ワールドである。そこには先輩たちの作品に見られるような時代の熱に侵された高揚感はない。この曲で聴衆が最初に目に(耳に)するのは、素っ気ないくらい平熱の世界だ。たぶんこの曲が20世紀に入ってから書かれたせいだろう。1904年の世界ではヴィルトゥオーソ・ブームは既に過ぎ去っていた。シベリウスはヴィルトゥオーソ・ブームから時間的にも精神的にも遠く離れた場所でこの曲を書いた。19世紀との隔たりは、彼の技巧に対するスタンスにも色濃く現れている。これだけ技術的に難しい曲でありながら、シベコンには「どうだ、すごいだろう。」と聴き手を煽るようなニュアンスは微塵もない。あるのは徹底した自己探求のみである。技巧はアクロバットの披歴のためではなく、エゴの発露のためでもなく、ただ、より深く曲の世界に入っていくための契機として機能している。それらはシベリウスによってひとつひとつ念入りに検証された上で配置され、そのすべてが曲中の心象風景と分かちがたく結びついている。ひとたびイメージが共振すれば、聴き手の意識はすぐにシベリウスの意識につながることができる。この内省的なアプローチは、パガニーニおよびパガニーニ・フォロワーが提出するヴァイオリン腕自慢大会的な興奮とは異なる、特別な奥行きをこの曲に与えているように思う。そしてシベコンが提出する「内省された心象風景」は、今を生きる現代人のモードに合っていて、心にうまく引っかかる。近年この曲の演奏の機会が増えた理由はそのへんにあるんじゃないかと思う。
と、この程度ならもっともらしい文章がいくらでも書ける。でも、ここから先が問題なのだ。私の場合は。もし、ここまでのテキストを読んだ人のうちの誰かに「じゃあ、具体的にどの部分の、どの技巧が、どんな心象風景とつながっているの?」と尋ねられたとしても、私はすぐには答えられない。たとえば、前述の前田さんなら、重音の左指の動きの難しさをツイスターゲームに例えてわかりやすく説明できる。でも、私には前田さんのように具体的な、一歩踏み込んだ臨場感のある説明はできない。
だって、弾けないもん、ヴァイオリン。
弾けないどころか、楽器に触ったことすらない。
技巧については言うに及ばず、である。
前田さんが取り上げた重音にしたって、私の中では「高音と低音がハモっている奏法」くらいの認識しかない。よくそれでシベコン広報部長を名乗れますね、と前田さんは驚いてあきれるかもしれない。まあ、それはないとしても、引け目は常に自分の中にある。
私ごときでは本当の意味でシベコンを理解することはできないのではないか、
やはりヴァイオリン演奏に精通する人の理解の深さは及ばないのではないか、
所詮何を書いても前田さんほどの説得力は持ち得ないのではないか ・・・・。
しかし、この日の第2楽章を聴いて状況は一変した。
ここにも重音が登場する(キョンファ盤でいうと03:49のあたり)。転調と同時に暴れ出したオケが静まって、ソロ・ヴァイオリンが悲しげなアリアを歌うところだ。
ここで一艇のヴァイオリンから二つの音が聴こえてくる。
フロントで旋律を弾いているのは神尾さんひとりで
オケのヴァイオリン・パートは後ろに回っている。
でも、どういうわけか、聴こえてくる音が二つある。
重音。ダブルストップ。私はヴァイオリンを弾けないけど、そういう奏法があることくらいは知っていた。キョンファ盤CDを聴きながら、この部分は重音で弾いているんだろうな、と
ぼんやりと想像していた。
しかし
実際に弾いている様子は
私の想像を超えた、マジックのようなものだった。
私の席からは神尾さんの手元がよく見える。
でもいくら目を凝らしてみても
どうしてひとつの楽器から二つの音が同時に鳴るのか
不思議でならない。
もうひとつ気付いたことがある。私の認識では、「重音」=「高音と低音がハモっている」という程度だったが、それは間違いだった。
現場の状況はもっと複雑精緻で、
二声が同時にハモるのではなく、
高音のメロディと低音のメロディのそれぞれが意志を持ったように別々に動くのだ。
まるで手品だ、と私は思った。
100年前にシベリウスが仕掛けたトリックを
神尾さんは鮮やかな手さばきで次々に再生していく。
このプレイには特別な意味がある。
私はふとそう思った。
高音と低音。光と影。
このヴァイオリンは葛藤する二つの心だ。
そう思った瞬間、この曲の全てがいっぺんに理解できた。
まるで作曲をするシベリウスの傍らに立ってその頭の中を覗いたみたいに、
一瞬のうちに、一から十まで理解できたのだ。
これなら一歩どころか、十歩も二十歩も踏み込んだリアルな文章が書ける。
というわけで、前置きが長くなってしまったが、
神尾真由子ファンのみなさん、お待たせしました。
次回は記憶のVTRを巻き戻して第2楽章のスタート地点まで遡り、時系列に沿って演奏を再現しながら、私の中で起こった変化を検証してみる。もちろん、今までよりヴァージョン・アップした文章で。フフ。
でも、その前にウォーミングアップを兼ねて初歩的なインフォメーションをひとつ。
シベコンの第2楽章の内容を簡単に表すと
00:01~00:39
プロローグ
00:40~03:12
Aメロ(長調)の1回目
03:13~04:44
Bメロ(短調)
04:45~05:35
Aメロ(長調)の2回目
05:36~06:31
Aメロ(長調)の3回目(クライマックス)
06:32~08:08
エピローグ
となる(時間はキョンファ盤による)。ごらんのように、
この楽章はAメロの循環をベースにしてBメロが挿入される三部形式である。加えて、
Aメロの循環は一周を終えるごとにより高い始点に到達するらせん構造になっている。
( 第13回へ続く )
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この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」←明日です!
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