ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
管弦楽:BBC交響楽団
2010年5月12日の演奏会より第2楽章
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第2楽章は静かなクラリネットの二重奏で幕を開ける。
クラリネットのフレーズをオーボエとフルートが引き継ぎ、
ティンパニのトレモロが真夜中を告げると
夜行性の小動物のように、暗闇のあちこちで管楽器が動き出す。
月の光が地上を照らす中、ソロ・ヴァイオリンが密やかにAメロを歌う。
ピチカートでミステリアスな情景を添えていた弦パートが裏にまわり、
入江に寄せるさざ波のように一定のリズムを刻んで徐々に響きを高めると
ソロ・ヴァイオリンの旋律が満ち潮のように緩やかに上昇しながら高揚する。
やがて訪れるピークを挟んで旋律は下降に転じ、
ゆっくりと弛緩しながら振り出しに戻り、
そこでひとつのループが完結する。
満ち足りた気持ちでAメロの余韻をなぞるヴァイオリン。
この昇降がもっと続けばいいのに。淡い期待が胸に浮かぶ。
ひたひたと打ち寄せる弦のさざ波が、ループの連続性を予感させる。
でもその期待を裏切って場面は一変する。
厚い雲が月を覆い隠し、世界が闇に包まれる。
出し抜けに短調のBメロが現れて、
弦パートのユニゾン→トランペット→オケのトゥッティと、
次々に呼応しながら瞬く間に大きく渦巻いていく。
冷たく重い水がさざ波に流れ込んで混じり合う。
各パートは主張したかと思うとすぐに引っこんで、フロントがくるくる替わるから
フレーズが乱立してどれがBメロの旋律なのかわからない。
変化が一度に起こるせいで、
ただ漠然と聴いているだけでは回線がショートしてパニックに陥りそうになる場面だ。
でも急激な展開をあわてて追いかけても道に迷うだけ。
たしか第1楽章にもこんな場面があった。
庄司さんの演奏で、同じようにして出口のない森を彷徨ったのを覚えている。
急展開は見せかけだ。背後でシベリウスはひっそりと聴き手に謎を問いかけている。
そう思って辛抱づよく音楽に耳を澄ませていると
やがてそこに微かではあるが一貫した流れがあることがわかる。
さらにじっと耳を澄ませると、
短調のフレーズは
元をたどれば楽章の冒頭のクラリネットの二重奏に辿り着き、
突然の転調は、もともと曲が内包していた音符の噴出に過ぎないことに思い至る。
AメロもBメロも根っこは一緒。光も闇も同じひとつの心から生まれている。
聴き手は時間の経過とともに、その表と裏を見ているのだ。
オケのトゥッティの嵐が止み、静寂の中でソロ・ヴァイオリンが歌う短調のアリア。
シベリウスはここでせめぎあうふたつの心を重音に託して息詰まる場面を作り出す。
アリアは冒頭から二声に引き裂かれている。
高音はループに復帰して前に進もうとする心。低音は暗闇で停滞しようとする心。
交錯する光と影のように二声が入れ替わり、せめぎあい、進路を奪い合う。
神尾さんが繰りだす超絶技巧を、聴衆が固唾をのんで見守っている。
どうしてこんなことがわかるんだろう。
私は不思議に思う。
私の耳がここまで深いドラマを読み取れるはずがない。
私の耳はまだそこまで訓練されていない。
家でCDを聴く時もこのへんは聞き流していた。アダージョ楽章、眠くなる、
はやくノリノリのアレグロが聴きたい、とか思って。
重音はただハモっているだけに聴こえたし、楽章全体についても
ふつうに美しい緩徐楽章という印象しかなかった。
それが神尾さんの見事な重音のワンプレイをきっかけに一転した。
今まで絵だと思って見ていたものが、実は彫刻だったと気づいたみたいに、
そこにある精緻な仕組みを、いろんな角度から見て理解することができた。
やがてソロ・ヴァイオリンの高音が、決心したようにいっきに音階を駆け上がり、
残された低音は力尽きてオーボエに吸収される。
メランコリックなアリアから解放されたソロ・ヴァイオリンは奔放な走句へと姿を変えて
さらなる高みを目指して昇降を繰り返し、
ソロ・ヴァイオリンからアリアを引き継いだオーボエはヴィオラと合流し、
ヴィオラの旋律はいつのまにか長調のAメロの始点に回帰し、
Aメロの旋律がオケ全体に伝播し(このへんのシベリウスの書法はすごくトリッキー。天才的!)、
ソロ・ヴァイオリンの高音の走句が上昇するAメロをきらきらと美しく装飾して、
やがて迎える2回目のピーク。
私はそう思う。
シベコンにおいて技巧は心象風景と分かちがたく一体となっている。
技巧は物語を進める契機として重要な役割を果たしている。
そのため技巧は時として物語のより深い部分にアクセスするためのパスワードになる。
それは迷宮に続く隠された扉のようなものだ。
ひとつの技巧をきっかけにリスナーのイメージが拡がって、
それがひとたびシベリウスの心象風景と共振すれば、
リスナーの意識はあっという間にシベリウスの意識とつながって
深い観念の世界に引きずり込まれる。
私にとってはあの重音がパスワードになった。
あの重音をきっかけに私の意識はシベリウスの意識とつながり、
そこで見た風景が私の経験値のレベルを一気に押し上げた。
一種の化学変化が起こった結果、私はひとつの分水嶺を越えたのだ。
そう考えれば説明がつく。
そんなことあるわけない、と思う人もいるかもしれない。
でも私は十分起こりうると思う。
この曲のイマジナティブなのりしろの大きさを考えれば、
それくらいの奇跡は起こっても不思議はないと思う。
それくらいの魔力がなくて、この急速に変化していく世の中で、
音楽が1世紀以上の時の試練を耐えられるだろうか。
それともうひとつ。
そこに神尾さんというファンタジスタの力が働いていることを忘れてはいけない。
この人はほんとうに、奇術師のように鮮やかなプレイをする。
昇降を終えて2周目のループが完結すると
Aメロが振り出しに戻って、みたび上昇を始める。
ソロ・ヴァイオリンが上昇する音符をやさしく刻んでAメロに情景を添えて、
フルートが下降する音符でソロ・ヴァイオリンと交錯する。
いくつもの泡がきらめきながら水面を目指して昇り、波間から差し込む光と溶け合うシーン。
ふと気がつくと、オケがさざ波のリズムを歌いだしている。
月を覆っていた雲もいつのまにかどこかへ消え失せている。
世界は元のループを取り戻し、この循環は二度と途切れることはないと月の光が教えている。
そして、ここからの、神尾さんの歌いっぷりときたら!
讃岐うどんのような音(中・低音だけでなく、もはや全ての音が讃岐うどんと化している)が、
どこまでも、伸びる、伸びる。
つるつるののどごしはとめどなく続き、
もちもちの歯ごたえは食べても食べてもなくならない。
これぞ神尾マジック。
まるで空っぽの箱の中から両端をつなぎあわせた色とりどりのハンカチを
次から次へと引っ張り出してくる手品みたいだ。
「 ・・・ 一体、いつまで続くんだ?」
私が呆然としてつぶやくと、
「ハンカチが1階席を埋め尽くすまで。」
神尾さんがクールに答える。
「で、でも、そんなにたくさん、いったいどこに隠しているの???」
「たねもしかけもありません。」
そして3度目の絶頂がやってくる。
オケとソロ・ヴァイオリンのユニゾンが力強く頂点を指し示すと
その5つの音符がカウントダウンになって、夜が明ける。
・・・ う~ん。ファンタジスタ ・・・
気がつけば妄想の中で二人で会話しているくらい、引き込まれてしまった。
ここは彼女が秘め持つ無尽蔵のポテンシャルを感じさせる、一番のハイライトだった。
昇ったばかりの新しい太陽の光に包まれて
Aメロの余韻を残しつつ最後のループが完結し、楽章が静かに幕を閉じる。
それにしても。
生演奏で聴く第2楽章のAメロの美しさは格別。
CDでもきれいなメロディだと思ったけど、生だと余韻がいっそう心にしみる。
シベリウスって幸せだなぁ、と私はつくづく思った。
神尾さんとか、庄司さんとか、その他大勢の若くひたむきな演奏家が
こうして夜な夜な、世界各地のコンサートホールで、
全身全霊をかけて美メロのテコ入れをしてくれるのだ。
作曲家冥利に尽きる。
天国でこの演奏を聴きながら、シベリウスはきっとそう思っているだろう。 ( 第14回へ続く )
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この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」←本日です!
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