外出から帰ると郵便受けに封書が一通入っていました。
差出人は「NHK広報局」となっています。
私が受信料不払いを宣言する手紙を投函したのはつい数日前のことですが、
さすがにNHKは仕事が早いです。
NHKが肝心な時に国会中継をサボることと、政府・与党の「行け行け」的な議会運営の間には相関関係がある。私は常々そう思っていて、その疑念は先日TPPの審議が中継されなかったことで確信に変わり、ついに実力行使に踏み切ることにしました。
この手紙はそれに対するNHKからのリアクションです。
一体どんなことが書いてあるのでしょう。
すぐに内容を確認し、次の対策を考えるべきところです。
しかし、なかなか開封する気持ちになれません。
自分から喧嘩を売っておきながら、いざ相手が応じてくると、
気後れするといいますか、尻ごみするといいますか、
たぶんこういうのを、小市民って言うんでしょう。
読まなきゃいけないな・・・でも読みたくないな・・・と封筒を横目でにらみつつ
開封をためらっています。
話は変わりますが、
私がはじめてプラカードを持って国会前の路上に立ったのは今から3年前、
2013年の11月28日でした。
その日国会では特定秘密保護法案の審議が行われていました。
そして横浜のみなとみらいホールでは、ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルによる
オペラ「フィデリオ」が初日を迎えていました(私は千秋楽を聴きに行った)。
よく晴れた温かい日で、大安吉日で、おまけに私と夫の何回目かの結婚記念日でした。
国会議事堂を取り巻く並木道の紅葉がちょうど見ごろを迎えていて、
黄色く色づいたイチョウと青空のコントラストがすごくきれいだったのを
今でも鮮明に覚えています。
当時はデモといえば首相官邸前の反原発デモが主流で、
国会正門前の反政府デモというのは(私が知る限り)まだ影も形もなくて、
その日も路上に立っているのは私しかいなくて、昼間だし、
なんだかすごく目立ってしまって冷や汗をかきました。
その後特定秘密保護法は12月6日に強行採決されて可決成立し、
それを契機に政府・与党は従来では考えられなかった強権を
国会で平気で発動するようになります。
上に書いた「行け行け」の議会運営ですね。しかしその反動で
SASPLとかSEALDsといったカウンター(抵抗)勢力が市民の中に生まれ、
国会正門前のデモが世間の注目を集めるようになり、
私もその勢いに加わる形で権力にモノ申す姿勢を続けてきました。
今では圧政に抗議することは日常的な行為として暮らしの中に定着し、
毎月おしゃれをしてN響定期を聴きに出かけるのと同じノリで
「NO TPP」のプラカードを掲げて最寄駅のロータリーにひとりで立つことができます。
とはいえ権力に抗うことは
この国で暮らす一般市民にとってかなり効率の悪い営みです。
金曜の夜に国会前で群衆に混じって「アベハヤメロ」と、いくら叫んだところで、
あるいは朝の通勤時間帯に駅前でTPP反対のサイレントスタンディングをしたところで
それは木が一本空気をきれいにするとか、プランクトンが一匹
水をきれいにするとかいうのと同じスケールでしかなく、
その行為が周りに及ぼす効果が具体的なかたちとして目の前に現れることは
ほとんどありません。
そういう、すぐに結果が出ないことからくるフラストレーションは
常にプロテスターの心の中にあるのですが、
しかしその反面、匿名の気楽さがあるというのも事実で、
名前とか年齢とか職業とか、普段属しているグループを離れた有象無象になって
SEALDsなんかと一緒にコールするのはなんだかお祭り気分で楽しかったし、
なにしろ気持ちが若返りました。
しかしそんな気楽さは今回のNHKへの抗議にはありません。
私は匿名であることをやめ、住所と名前を明らかにした上で受信料支払い義務を
放棄しています。そこには当然リスクが発生します。自分の行為が目に見える結果となって
直接自分に降りかかってきます。
今はまだ封書が届くくらいのものですが、やがて督促が始まり、
いずれは訴訟などの社会的ペナルティを課されることになるかもしれません。
もちろん私はそれを見越した上で抗議しているのですが、そこまでの覚悟を持って
権力側に楯突くのはプロテスター生活3年目にして初めてのことです。
私が自らリスクを背負う決意をした背景には
やはりSEALDsの存在が大きく関わっています。
SEALDsの活動というのは、大まかに振り返ると
若者たちが名前と顔を出してフロントに立ち圧政に抗議して
それを周りの大人がサポートする
という構図でした。それはあえて意地悪い見方をすれば
若者にリスクを負わせて騒ぎを起し、それに便乗して
何かをやった気になっている匿名の大人が大勢いた
ということになります。私はまさにその一人で、そのことにずっと後ろめたさを感じていました。
今年の夏にSEALDsは解散しましたが、彼らがまいた種は私の中に留まり、
次は私がリスクを取って借りを返す番だ、という意識が芽生えはじめた・・・
今回のアクションには、そんな心理的背景があると思います。
もうひとつの背景として
3年間の抗議経験の蓄積がもたらした心境の変化があります。要するに、
私はプロテスターとしてもう一段ステップアップしたくなったのです。
NHKから送られる電波を受け取っていながら受信料支払い義務を放棄する。
それは反社会的行為です。そこに疑いの余地はありません。
しかし私にはそれを行う正当な理由があります。なにしろ、このところのNHKは
公共放送の理念より政府の意向を優先して仕事をしているように見える。
国会での審議を中継しないことで強行採決のハードルを下げて
政府の横暴を裏側からサポートしているように見える。
強行採決に抵抗する野党の姿を「いつものパフォーマンス」と矮小化して、
「与党も悪いが野党も悪い。」と印象操作しているように見える。
私にはこれらのモチーフがひとつの流れを作りつつあるように感じられます。
それはやがて言論統制へ辿り着く不穏な流れです。そしてこのような流れが作り出されるのは
初めてではありません。この国ではかつて厳しい言論統制が行われていました。
その時私はまだ生まれていなかったけど、当時の人たちが毎日を暗い気持ちで
過ごしていたことは、祖父母の記憶から聞き知っています。
その流れに抗い押し止めることは戦後に生まれ平和を享受してきた者の責務である。
それは私が祖父母の記憶から受け取ったメッセージです。
自分の行為が反社会的なものであることは認識しています。でも私を動かす動機は
私が担うべき責務の延長線上にあるものです。私は自分の行為を恥じる必要はありません。
とはいうものの、それは結局のところ自分だけの論理です。そして
自論だけを展開している人に建設的な市民運動を立ち上げることはできません。
そういう人は周囲とのバランスを欠いていずれ行き詰まります。
もちろん自分を信じることは大事です。確固たる意志や信念がなければ
権力に楯突くなんてできません。でもそれだけでは不十分です。
それはちょうど小さな手鏡を持ち、自分にとって好ましい部分だけを映して
うっとりと見とれているようなものです。誰かに「それは自己満足だ。うぬぼれだ。」と
糾弾されても有効な反論ができません。
そういう自己満足プロテスターやうぬぼれプロテスターを私は路上でたくさん見てきました。
彼らは狭いサークルの中でいつまでも堂々巡りをしているように見えました。
自分はそうなりたくないと思います。そのためには意識のフレームを拡大して
自己を相対化するという作業がどうしても必要になります。
「メディアが圧政を隠すのはフェアじゃない」と抗議する自分と、
それを外から冷静に見るもうひとりの自分を同時に意識すること。
そうやって多角的な視点に立って自分と自分を取り巻く世界のバランスを保ちつつ
他者との接点を見出すこと。
そのようなプロセスを経ることで、
私の論理はパーソナルなものからユニヴァーサルなものへと洗練され、
より幅広い世界で市民権を得ることになるはずです。
そのための第一歩として、私はまず今まで覗いていた小さな手鏡を捨てることにしました。
そしてもっと大きくて精密な鏡の前に立ち、
そこに等身大の自分の姿を映してみることにしました。
主観から客観へ自己認識の枠を押し広げること。
私はプロテスターとしての新しい目標を、そこに絞ることにしたのです。
そしてNHKといえばこの国で最も影響力をもつメディアであり、
自己を反映する大きな鏡の役割を果たす相手として申し分ない。
私はそう考えたのでした。
しかし、こうして「NHK広報局」から名指しで手紙が届き、
手紙の向こう側にいる組織の巨大さについて改めて考えると
「大それたことをしてしまった」
とひるむ気持ちがまず先に立つというのが正直なところです。
そもそもあちらここちらでは世の中に及ぼすパワーが比較になりません。
彼らは言うなれば人の心をあやつるプロの集団です。
たとえば、この国にはNHKのアナウンサーの言うことをそのまま信じる人がたくさんいます。
「NHK=世間」、「NHK=現実」というイメージが集団意識の中に確立されている。
NHKはテレビを使ってそのイメージを毎日繰り返し視聴者の頭に叩き込んでいて、
その刷り込みから逃れるには国を出ていくかテレビを捨てるかのどちらかしかありません。
「皆さまのNHK」というのが彼らキャッチフレーズですが、おためごかしの言葉の裏には
常にたくらみが潜んでいるものです。私たちはNHKの作り出すイメージに全方向から
包囲されていると言っても過言ではありません。
手紙を読まなければいけない。でも読んだらNHKに頭を占領されそうで怖い・・・
攻守の気持ちがせめぎあううちに、私はいつしか
「なんか・・・もう、投げ出したいかも」
という心境になっていました。
いまさら言うまでもないかもしれませんが、私は相当なエゴイストです。
それに加えて(自分でいうのもなんですが)大胆で向う見ずな性格です。
学校の先生、会社の上司、主治医、姑(コレハヤバイ)等々、
たとえ相手が自分より上の立場でも
おかしいと思うことがあれば遠慮なくおかしいと言ってしまいます。
NHKに抗議したのもそれと同じノリでした。私の中には安易に人に与しない気骨があって、
それは相手が誰であろうと揺るがない。そうたかをくくっていたのです。
でもそれは甘い考えでした。
「蛇に睨まれたカエル」とよく言いますが、こちらが仰ぎ見るほど圧倒的な
プレステージと影響力を持つ相手と真っ向から対峙していると、
敵愾心にかわって心に空白が生まれ、極限で針が逆に振れるように
「・・・もう、この大きな力とひとつになりたい。同化したい」
という思いが頭をよぎるのです。
もうずいぶん前のことになりますが、私はサントリーホールで小泉純一郎に遭遇し、こちらから
話しかけたことがあります。その時も自分の豹変ぶり(というかヘタレぶり)に仰天しました。
まるで魔法にかけられたように自分ががらりと変わってしまったのです。
「自分より大きな力に支配されたい」
「ややこしい現実に自分の頭を煩わすより、強い力を持つ誰かに丸投げしたい」
「自己に固執するよりいっそ放棄したい」
その欲求はほとんど衝動と言っていいくらい強いもので、
向きあう相手が大きければ大きいほど甘美で、
理性を超えて本能に直接働きかけてくるので、
普通の人間がその誘惑に耐えて打ち克つのは並大抵のことではない
ということを、久々に身を持って知りました。
そして「変節」というものの正体はここにあるのかもしれない、とも思いました。
権力におもねる、あるいは忖度するという心理が世の中にはあって、
今までは全然ぴんと来なかったその心理が、
実はこういう誘惑に負けた結果なのかもしれないと思うと
少しだけ自分に身近なものに思えます。
安保法案では鴻池祥肇が、TPP承認案では佐藤勉と大島理森が、
もともとは分別をわきまえた政界の重鎮で、与党内のブレーキ役だったにもかかわらず
審議の最終局面でコロっと変節したのも、この誘惑に負けたせいなんじゃないかしら。
そう考えると彼らの心の振幅がリアルに胸に迫ってきます。
彼らが見せた弱さは特別なものじゃなくて、それは誰もが持っている弱さで、
私だっていつ変節するかわかったものじゃないんだなと
自分に対する認識を改めることになりました。
でも私は気を取り直し
改めて目の前の手紙を開封することを決意しました。
変節の誘惑を打ち払い、自己を放棄したい気持ちを押し止めました。
ブログの閲覧者の存在が、私にその力を与えてくれました。
「大丈夫。私はひとりでこの手紙を読むわけじゃない」私はそう思ったのです。
地味な政治ネタをエントリしているにもかかわらず、ここには毎回一定の閲覧者が訪れる。
ここで起きる出来事は、私のものであると同時にその人たちのものでもある。
その人たちはきっと事態の成り行きについて報告を待っているはずだ。
私が心に抱く疑問や怒りや恐れは、私がここに書き込むことでその人たちのものになる。
私はブログを通してその人たちとつながっている。
だとしたら、私だけの判断で、事態を途中で投げ出すことはできない。
そう自分に言い聞かせて
架空のサポーター達の声援を背中に感じながら
ようやく封を切ったのでした。 ( つづく )
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
差出人は「NHK広報局」となっています。
私が受信料不払いを宣言する手紙を投函したのはつい数日前のことですが、
さすがにNHKは仕事が早いです。
NHKが肝心な時に国会中継をサボることと、政府・与党の「行け行け」的な議会運営の間には相関関係がある。私は常々そう思っていて、その疑念は先日TPPの審議が中継されなかったことで確信に変わり、ついに実力行使に踏み切ることにしました。
この手紙はそれに対するNHKからのリアクションです。
一体どんなことが書いてあるのでしょう。
すぐに内容を確認し、次の対策を考えるべきところです。
しかし、なかなか開封する気持ちになれません。
自分から喧嘩を売っておきながら、いざ相手が応じてくると、
気後れするといいますか、尻ごみするといいますか、
たぶんこういうのを、小市民って言うんでしょう。
読まなきゃいけないな・・・でも読みたくないな・・・と封筒を横目でにらみつつ
開封をためらっています。
話は変わりますが、
私がはじめてプラカードを持って国会前の路上に立ったのは今から3年前、
2013年の11月28日でした。
その日国会では特定秘密保護法案の審議が行われていました。
そして横浜のみなとみらいホールでは、ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルによる
オペラ「フィデリオ」が初日を迎えていました(私は千秋楽を聴きに行った)。
よく晴れた温かい日で、大安吉日で、おまけに私と夫の何回目かの結婚記念日でした。
国会議事堂を取り巻く並木道の紅葉がちょうど見ごろを迎えていて、
黄色く色づいたイチョウと青空のコントラストがすごくきれいだったのを
今でも鮮明に覚えています。
当時はデモといえば首相官邸前の反原発デモが主流で、
国会正門前の反政府デモというのは(私が知る限り)まだ影も形もなくて、
その日も路上に立っているのは私しかいなくて、昼間だし、
なんだかすごく目立ってしまって冷や汗をかきました。
その後特定秘密保護法は12月6日に強行採決されて可決成立し、
それを契機に政府・与党は従来では考えられなかった強権を
国会で平気で発動するようになります。
上に書いた「行け行け」の議会運営ですね。しかしその反動で
SASPLとかSEALDsといったカウンター(抵抗)勢力が市民の中に生まれ、
国会正門前のデモが世間の注目を集めるようになり、
私もその勢いに加わる形で権力にモノ申す姿勢を続けてきました。
今では圧政に抗議することは日常的な行為として暮らしの中に定着し、
毎月おしゃれをしてN響定期を聴きに出かけるのと同じノリで
「NO TPP」のプラカードを掲げて最寄駅のロータリーにひとりで立つことができます。
とはいえ権力に抗うことは
この国で暮らす一般市民にとってかなり効率の悪い営みです。
金曜の夜に国会前で群衆に混じって「アベハヤメロ」と、いくら叫んだところで、
あるいは朝の通勤時間帯に駅前でTPP反対のサイレントスタンディングをしたところで
それは木が一本空気をきれいにするとか、プランクトンが一匹
水をきれいにするとかいうのと同じスケールでしかなく、
その行為が周りに及ぼす効果が具体的なかたちとして目の前に現れることは
ほとんどありません。
そういう、すぐに結果が出ないことからくるフラストレーションは
常にプロテスターの心の中にあるのですが、
しかしその反面、匿名の気楽さがあるというのも事実で、
名前とか年齢とか職業とか、普段属しているグループを離れた有象無象になって
SEALDsなんかと一緒にコールするのはなんだかお祭り気分で楽しかったし、
なにしろ気持ちが若返りました。
しかしそんな気楽さは今回のNHKへの抗議にはありません。
私は匿名であることをやめ、住所と名前を明らかにした上で受信料支払い義務を
放棄しています。そこには当然リスクが発生します。自分の行為が目に見える結果となって
直接自分に降りかかってきます。
今はまだ封書が届くくらいのものですが、やがて督促が始まり、
いずれは訴訟などの社会的ペナルティを課されることになるかもしれません。
もちろん私はそれを見越した上で抗議しているのですが、そこまでの覚悟を持って
権力側に楯突くのはプロテスター生活3年目にして初めてのことです。
私が自らリスクを背負う決意をした背景には
やはりSEALDsの存在が大きく関わっています。
SEALDsの活動というのは、大まかに振り返ると
若者たちが名前と顔を出してフロントに立ち圧政に抗議して
それを周りの大人がサポートする
という構図でした。それはあえて意地悪い見方をすれば
若者にリスクを負わせて騒ぎを起し、それに便乗して
何かをやった気になっている匿名の大人が大勢いた
ということになります。私はまさにその一人で、そのことにずっと後ろめたさを感じていました。
今年の夏にSEALDsは解散しましたが、彼らがまいた種は私の中に留まり、
次は私がリスクを取って借りを返す番だ、という意識が芽生えはじめた・・・
今回のアクションには、そんな心理的背景があると思います。
もうひとつの背景として
3年間の抗議経験の蓄積がもたらした心境の変化があります。要するに、
私はプロテスターとしてもう一段ステップアップしたくなったのです。
NHKから送られる電波を受け取っていながら受信料支払い義務を放棄する。
それは反社会的行為です。そこに疑いの余地はありません。
しかし私にはそれを行う正当な理由があります。なにしろ、このところのNHKは
公共放送の理念より政府の意向を優先して仕事をしているように見える。
国会での審議を中継しないことで強行採決のハードルを下げて
政府の横暴を裏側からサポートしているように見える。
強行採決に抵抗する野党の姿を「いつものパフォーマンス」と矮小化して、
「与党も悪いが野党も悪い。」と印象操作しているように見える。
私にはこれらのモチーフがひとつの流れを作りつつあるように感じられます。
それはやがて言論統制へ辿り着く不穏な流れです。そしてこのような流れが作り出されるのは
初めてではありません。この国ではかつて厳しい言論統制が行われていました。
その時私はまだ生まれていなかったけど、当時の人たちが毎日を暗い気持ちで
過ごしていたことは、祖父母の記憶から聞き知っています。
その流れに抗い押し止めることは戦後に生まれ平和を享受してきた者の責務である。
それは私が祖父母の記憶から受け取ったメッセージです。
自分の行為が反社会的なものであることは認識しています。でも私を動かす動機は
私が担うべき責務の延長線上にあるものです。私は自分の行為を恥じる必要はありません。
とはいうものの、それは結局のところ自分だけの論理です。そして
自論だけを展開している人に建設的な市民運動を立ち上げることはできません。
そういう人は周囲とのバランスを欠いていずれ行き詰まります。
もちろん自分を信じることは大事です。確固たる意志や信念がなければ
権力に楯突くなんてできません。でもそれだけでは不十分です。
それはちょうど小さな手鏡を持ち、自分にとって好ましい部分だけを映して
うっとりと見とれているようなものです。誰かに「それは自己満足だ。うぬぼれだ。」と
糾弾されても有効な反論ができません。
そういう自己満足プロテスターやうぬぼれプロテスターを私は路上でたくさん見てきました。
彼らは狭いサークルの中でいつまでも堂々巡りをしているように見えました。
自分はそうなりたくないと思います。そのためには意識のフレームを拡大して
自己を相対化するという作業がどうしても必要になります。
「メディアが圧政を隠すのはフェアじゃない」と抗議する自分と、
それを外から冷静に見るもうひとりの自分を同時に意識すること。
そうやって多角的な視点に立って自分と自分を取り巻く世界のバランスを保ちつつ
他者との接点を見出すこと。
そのようなプロセスを経ることで、
私の論理はパーソナルなものからユニヴァーサルなものへと洗練され、
より幅広い世界で市民権を得ることになるはずです。
そのための第一歩として、私はまず今まで覗いていた小さな手鏡を捨てることにしました。
そしてもっと大きくて精密な鏡の前に立ち、
そこに等身大の自分の姿を映してみることにしました。
主観から客観へ自己認識の枠を押し広げること。
私はプロテスターとしての新しい目標を、そこに絞ることにしたのです。
そしてNHKといえばこの国で最も影響力をもつメディアであり、
自己を反映する大きな鏡の役割を果たす相手として申し分ない。
私はそう考えたのでした。
しかし、こうして「NHK広報局」から名指しで手紙が届き、
手紙の向こう側にいる組織の巨大さについて改めて考えると
「大それたことをしてしまった」
とひるむ気持ちがまず先に立つというのが正直なところです。
そもそもあちらここちらでは世の中に及ぼすパワーが比較になりません。
彼らは言うなれば人の心をあやつるプロの集団です。
たとえば、この国にはNHKのアナウンサーの言うことをそのまま信じる人がたくさんいます。
「NHK=世間」、「NHK=現実」というイメージが集団意識の中に確立されている。
NHKはテレビを使ってそのイメージを毎日繰り返し視聴者の頭に叩き込んでいて、
その刷り込みから逃れるには国を出ていくかテレビを捨てるかのどちらかしかありません。
「皆さまのNHK」というのが彼らキャッチフレーズですが、おためごかしの言葉の裏には
常にたくらみが潜んでいるものです。私たちはNHKの作り出すイメージに全方向から
包囲されていると言っても過言ではありません。
手紙を読まなければいけない。でも読んだらNHKに頭を占領されそうで怖い・・・
攻守の気持ちがせめぎあううちに、私はいつしか
「なんか・・・もう、投げ出したいかも」
という心境になっていました。
いまさら言うまでもないかもしれませんが、私は相当なエゴイストです。
それに加えて(自分でいうのもなんですが)大胆で向う見ずな性格です。
学校の先生、会社の上司、主治医、姑(コレハヤバイ)等々、
たとえ相手が自分より上の立場でも
おかしいと思うことがあれば遠慮なくおかしいと言ってしまいます。
NHKに抗議したのもそれと同じノリでした。私の中には安易に人に与しない気骨があって、
それは相手が誰であろうと揺るがない。そうたかをくくっていたのです。
でもそれは甘い考えでした。
「蛇に睨まれたカエル」とよく言いますが、こちらが仰ぎ見るほど圧倒的な
プレステージと影響力を持つ相手と真っ向から対峙していると、
敵愾心にかわって心に空白が生まれ、極限で針が逆に振れるように
「・・・もう、この大きな力とひとつになりたい。同化したい」
という思いが頭をよぎるのです。
もうずいぶん前のことになりますが、私はサントリーホールで小泉純一郎に遭遇し、こちらから
話しかけたことがあります。その時も自分の豹変ぶり(というかヘタレぶり)に仰天しました。
まるで魔法にかけられたように自分ががらりと変わってしまったのです。
「自分より大きな力に支配されたい」
「ややこしい現実に自分の頭を煩わすより、強い力を持つ誰かに丸投げしたい」
「自己に固執するよりいっそ放棄したい」
その欲求はほとんど衝動と言っていいくらい強いもので、
向きあう相手が大きければ大きいほど甘美で、
理性を超えて本能に直接働きかけてくるので、
普通の人間がその誘惑に耐えて打ち克つのは並大抵のことではない
ということを、久々に身を持って知りました。
そして「変節」というものの正体はここにあるのかもしれない、とも思いました。
権力におもねる、あるいは忖度するという心理が世の中にはあって、
今までは全然ぴんと来なかったその心理が、
実はこういう誘惑に負けた結果なのかもしれないと思うと
少しだけ自分に身近なものに思えます。
安保法案では鴻池祥肇が、TPP承認案では佐藤勉と大島理森が、
もともとは分別をわきまえた政界の重鎮で、与党内のブレーキ役だったにもかかわらず
審議の最終局面でコロっと変節したのも、この誘惑に負けたせいなんじゃないかしら。
そう考えると彼らの心の振幅がリアルに胸に迫ってきます。
彼らが見せた弱さは特別なものじゃなくて、それは誰もが持っている弱さで、
私だっていつ変節するかわかったものじゃないんだなと
自分に対する認識を改めることになりました。
でも私は気を取り直し
改めて目の前の手紙を開封することを決意しました。
変節の誘惑を打ち払い、自己を放棄したい気持ちを押し止めました。
ブログの閲覧者の存在が、私にその力を与えてくれました。
「大丈夫。私はひとりでこの手紙を読むわけじゃない」私はそう思ったのです。
地味な政治ネタをエントリしているにもかかわらず、ここには毎回一定の閲覧者が訪れる。
ここで起きる出来事は、私のものであると同時にその人たちのものでもある。
その人たちはきっと事態の成り行きについて報告を待っているはずだ。
私が心に抱く疑問や怒りや恐れは、私がここに書き込むことでその人たちのものになる。
私はブログを通してその人たちとつながっている。
だとしたら、私だけの判断で、事態を途中で投げ出すことはできない。
そう自分に言い聞かせて
架空のサポーター達の声援を背中に感じながら
ようやく封を切ったのでした。 ( つづく )
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*