日々の日本舞踊

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十一段から成る「仮名手本忠臣蔵」の筋とは?

2015-05-20 00:07:09 | 歌舞伎舞踊 坂東流 坂東扇菊 日本舞踊
江戸時代の作品ですので、当時は幕府が風紀の取り締まりに厳しく、実際の事件をそのまま上演することができず、表向きは「太平記」の設定を使っています。

初演は文楽で、大阪で上演されました。
本筋とはあまり関係ない上方周辺での出来事が全体の半分ほどを占め、どこがどう忠臣蔵と関係あるのかわかりにくい場面もあります。

まず、史実から。

江戸時代は毎年春、三月になると朝廷から勅使(ちょくし)が江戸にやって来ます。
「勅使」というのは朝廷からの直接の命令を伝えるための特別な使者で、朝廷の代理人です。
何をしに来るかというと、江戸時代も、人事異動は3月でした。
そして幕府が任命した役職にだいたい対応するような「官職」が、朝廷から与えられることになっていました。
もちろん朝廷は政治を行いませんから、官職も名前だけですが、その任命のために、毎年勅使がやってくるのです。

その勅使を饗応(おもてなし)する役目が、その年は「浅野 内匠守 長矩(あさの たくみのかみ ながのり)」と「伊達 左京亮 村豊(だて さきょうのすけ むらとよ)」でした。
その指導役が「吉良 上野之介 義央 (きら こうづけのすけ よしなか)」でした。
伊達家は吉良に相応の付け届けをしたのですが、浅野家は形式だけで少なかったのです。
浅野からの進物が少ないのに腹を立てた吉良が、いろいろと浅野を苛めます。

ついに、堪忍袋の尾が切れた浅野内匠守が、吉良上野之介に斬りつけます。朝廷のお使者も来てるときに、江戸城のまん中、松の廊下で。

伊達の家老が浅野を取り押さえたために、吉良は大きな傷も負わず。
城中で狼藉を働いた罪で浅野は切腹、お家はおとりつぶしになります。
浅野家の家老は「大石 蔵之助(おおいし くらのすけ)」です。
大石をはじめとした家来達は主君の無念を思い、結託して半年後、吉良の屋敷に押し入って吉良を討ち取ります。

「敵討ち」は、公儀(幕府)の決定した「切腹」の処罰への不服表明とも取れる行為ですので、幕府は厳罰に処したかったのです。
でも、江戸市中に浅野の浪人への同情論がまき起こったため、幕府は折衷案として彼らに名誉ある死である切腹を命じました。
菩提は今も、主君浅野内匠守を中心に、泉岳寺の境内に眠っています。



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