今私がヘッドコーチを務める女子は、雰囲気が良いようで、良くはない。
先週日曜日も勝ったとはいえ、その表面的な結果がチームの良さには結びつかないことを私は知る。
個人に蔓延るモヤモヤはチームへ感染していることは確かなのだ。
とはいえ、その雰囲気の悪さはチームを崩壊させるものではなく、全員で乗り越えていくべき壁であり、私は良い捉え方をしようと思う。
勝ちという結果に満足せず、「もっと強い相手には通用しない部分ばかりだよね」という考え方ができた上でのモヤモヤならば、それこそ成長につながる。
ということで、一歩進んだ彼女らに6月30日の試合の反省を改めてさせた。
動画を見ての反省、私は男子の指導に注力していたためつきっきりで見ることはできなかったが、彼女らなら自分たちで話し合って反省することができると信じた。
ここで大事にしたことは、昨日の日記に書いたことが繋がってくる。
7番の選手は、「言うべきことを言う」姿を見せられるか…
ちょくちょく話し合いを聞いていると、
「ここもっと走ってほしかった」
などの言葉が聞こえる。
更に動画を巻き戻したりと、熱心にミーティングができていた。
(まぁ、まだまだ優しさが垣間見えるが…)
こうして動画を見たり、自主練をしたりと、バスケに対してのバイタリティが高いことはこのチームの良さなのだろう。
しかし、それでも全国大会で活躍するような選手と圧倒的に差が開き続けるのは、彼らが結果を出すことを目的としていないことなのだ。
自主練をするにあたって、自分が落としたシュートの本数やついたドリブルの数を覚えている人が少ないように、このミーティングもまた、話し合うことに満足して明日になれば全てを忘れているかもしれない。
また、仲間に同調して意見を持たなければそもそもその土俵にさらに上がれていない。
結果が全てだということは高校時代痛いほど知った。
高校1年生、練習にしがみつき、どれだけ自主練をしても、チームメイトにかけられた言葉は「変わってない」だった…
その言葉の意味を知ったのは高校3年生で、高校1年の私は日々の自主練をすれば上手くなると信じており、結果を出すための取り組みにはなっていなかった。
「自主練をして結果を出す」
ではなく
「自主練をすれば変われるはずだ」
だから自分と向き合うための練習にはならず、自主練をすることが現実逃避だったのだ。
「今のままでいいのか?」
現状の自分を疑うこと、
それだけが自分を変えてくれる。
その疑問から成長を成し遂げた時、過去にぶつけられた厳しい言葉は正しかったのだと知るだろう。
「変わってない」という言葉から成長したのではない。
結局は自分へ疑問を抱いた日から、私は上達した。
アドラー心理学、「嫌われる勇気」にはこんな描写がある。
「我々は、馬を水飲み場に連れていくことができるが、飲むか飲まないかは馬次第である」
全ては、自分次第なのだ。