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平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

「観光地と化した我が故郷」

2015-04-26 19:38:07 | 観光地と化した我が故郷

私は廣島育ちで中学生になってから初めて私の生まれ故郷はハワイのホノルル市である事を知らされました。所謂帰米二世です。 1歳半の時初めて両親と兄、姉と共に連れられて両親の故郷である廣島で住む事になったのでした。 其の当時の家族写真や米国国籍を示す出生証明書なども見せられて、自分には英語の名前でBenjamin  ベンジャミンと言う名前が登録されて居た事さえ知らず驚きました。 戦時中の頃でしたので父親からの英語会話は一切有りませんでしたので中学生になって初めて英語を学び始めるまで英語は一言も知りませんでした。
無事に廣島の中学に入学した1年生の年に廣島の原爆で命拾いしましたが、終戦後、16歳の頃、高校2年生を中退させられ父親は私の将来を思って単身でホノルルに住む伯母の家に私を託したのでした。 それ以来私の生涯は両親や兄姉達から完全に離別させられ寂しい運命を余儀なく負わされて現在に至っています。 家庭の複雑な事情に拠り二度と共に暮せる日は訪れませんでした。  日本に住む家族とは文通を交わす程度で遂には両親との最後を見届けることすらも不可能に終ったことは今でも悔やまれて仕方が有りません。
顔も見知らぬ初めて出会った伯母のお世話で無事にホノルルの高校を卒業出来ましたが、同時に朝鮮戦争勃発の為、19歳にして米国市民の義務として米国陸軍の任務に携わる事となり、挙句には朝鮮に2年間駐屯勤務を課せられる事となりました。 幸いに其の期間には戦争が終った直後でしたので最悪の危機は免れました。軍隊勤務の任期は無事米国本土にて終えた後、除隊してカリフォルニアのロスアンゼルスにて初めての私の自活が始まったのです。
結局ハワイでの滞在期間は高校を卒業するまでの僅か3年間にして、それ以後2011年の2月までハワイに戻る事は有りませんでした。 私の生まれ故郷と言うだけの事で特に懐かしさは感じませんでしたが、生まれ故郷だからこそ一度自分の家を持って生活をして見たい気持ちに誘われ、第二の引退生活を楽しみたい一念で引越しを決断したのでしたが、私が抱いていた昔のホノルルとは打って変わった観光地と変わり果てていたのでした。  私は観光地として全国の憬れの的となった人気最高のホノルルを見直し、再びハワイの住民として暮せる事を幸せに思って喜んでいました。  然し其の為に街中は観光客の莫大な数と其の数に見合う以上のレンタル カーの数で街中は渋滞状況が絶えず、凄く不便を感じました。 2週間位の短期間の休暇を愉しむには最高な観光地である事は認めますが、それ以上の生活を続ける街では無い事をつくづく実感させられました。 
2011年の2月には私の念願が叶ってホノルルに戻り、初めての我が家を持ち第二の引退生活を始めたのでした。 凄く幸せに感じて素晴らしい生き甲斐を感じました。 尤も素晴らしいと感じた事は此処に住む現地の住民の暖かい親切な人柄の良さに凄く感動させられました。 日本人が多く住む此のハワイでは全く人種差別を感じる事無く、誰もが非常に親しみ易く明るい性格の持ち主が多い事でした。 此の土地で生まれ育った人達に取っては将にパラダイスで幸せな暮らしをエンジョイされていると思われます。 然し彼方此方で暮して来た体験を身に付け、高齢に達した引退者の私に取っては決して喜んで満足出来る場所では有りませんでした。 愉しかった割には経済的にも可なり窮屈な生活状況の暮らしを強いられた様に感じました。 其の原因の一つには長年の家内の介護に明け暮れを必要とした事、更には身近な身内の家族や親戚の不在で常に不安な気持ちを抱いていたからです。 
幸いに私は年齢の割には体力に自信が持てていましたが、年数が経つにつれて自然と未来の生活保護に不安を感じるようになりました。 誰もが避けて通れぬ道程を考慮して早めに気持ちを入れ替え他人に迷惑の掛からぬ様に配慮して急遽引退者ホームに移動する事に決断を致しました。 引越を決行する毎に多くの家財道具を手放して参りましたが、更に身軽にして狭い一部屋の引退者ホームのアパートに移動したのです。 一時的には焦り気味だった不安な気持ちは薄れて拭い去り一段落をして喜んでいました。 充実した綺麗な施設と親切なスタッフのお陰で毎日が愉しく満足に思われていました。 然し乍ら3ヶ月目を迎えた頃には現実と生活状況の息の詰まりそうな部屋の狭さの不便さに耐えられなくなって来ました。引越し荷物の整理が出来ない侭の生活には可なりの抵抗が生じていました。 まるで軟禁状態の生活を余儀なく続けて行くかの様な毎日でした。  
其れまでに感じていた幸せな毎日は何処に消え失せたのでしょうか?  それに毎月の生活維持費は決して半端な出費では有りませんでした。 私には介護を必要とする家内との生活がこれからも伴って参ります。 私には未だ今迄以上に有意義な愉しい生活を過ごす事が出来る場所が必ず有る筈だと思う様になりました。 このように感じる毎日を重ねて行く様になって最早此れまでと、4ヶ月目に入った時点で以前7年間住み慣れたラスベガスを思い出し、早速ラスベガスに舞い戻る決心を致しました。 4年間のハワイ生活は非常に良い体験となり愉しかった想い出を残して決して悔いは有りませんでした。  多くの素晴らしい人達と巡り会えて親しく親切にして頂いた方達には感謝の気持ちで一杯です。
ハワイでの最後の2014年のクリスマスや2015年のお正月は感謝の気持ちを込めて静かに過ごしました。 
1月は再びラスベガスに戻る引越しの準備に忙しく立ち向かい、月末の31日を最後にラスベガスに立ち去りました。
かくしてラスベガスの懐かしい良き古巣に舞い戻り、お互いに知り合って親しくなった友人との再会を交え、大変暖かく迎えて頂き喜んで幸せに思って居ります。
今月の4月に入ってやっと普段の生活状態に戻り大変有意義の有る愉しい毎日を過ごしております。  お陰で家内の体調も旧友との再接触で可なり元気を取り戻し順調にリハビリを続けております。  
私達は此の新居を最後の棲家として余生を愉しく過ごして行く積りです。 数年後には再び老護施設の世話になる事を肝に銘じて其の覚悟をして参ります。 ハワイはこれからも永遠の観光地として繁栄し続ける事でしょう。

アラモアナ パークビーチから見たサンセット




アラモアナ パークビーチから見たダイヤモンドヘッド




ハワイ カイの老護施設




ラスベガス コミュニテイーのプール エリア