2007年4月に60年振りに初めてアメリカのラスベガスより帰国して目にした広島平和記念公園の様子を撮った画像と今回ウエブサイトから参考となる画像を含めて纏めて見ました。 猶昨年にもブログに掲載した写真も再度含まれて居ますのでご了承下さい。
因みに私は原爆投下当時、広島修道中学校1年生在学中で8月5日の前日まで学徒動員の一員として広島日赤病院近くの作業場で疎開された後の家屋の後片付けの任務に当っていました。 翌6日は上級生の2学年生徒と交替される事となり、我々一学年は全員休日を与えられ運良く生き残ることが出来ました。
交替された2学年の上級生は勿論全員被爆され尊い犠牲を払われました。
休日を戴いた我々一学年全員が必ずしも無事に生存した訳では有りません。多数の学生達は既に疎開先から通学されていましたが、市内に在住されていた生徒も多数居られその殆どは言うまでも無く被爆されました。
私は当時宮島近くの親戚の家に世話になっていましたので、原爆投下時点の爆風だけを体験しました。私が居た2階の部屋の広島市内方面に面した窓から突然黄色い鋭い稲光の様な光線が指した数秒直後に生まれて初めて感じた爆発音と同時に強烈な爆風の為部屋中に窓ガラスが散乱して吃驚仰天しました。幸い怪我はしませんでしたが、更に驚いた事に壊れた窓から見えたもくもくと膨れ上がっていくきのこ雲が、広島市内の青い上空に物凄い勢いで大きく幅広く上に上にと立ち昇っていた光景に目を反らす事は出来ませんでした。4歳上の姉は当時広島第一県女に通学中でやはり学徒動員で出勤中に被爆を受けましたが、奇跡的に運良く工場の建物の下敷きになって大怪我は免れましたが、翌日まで帰宅出来ませんでした。
近所の人達も唯恐怖に慄くばかりで一体何が起こったのか判らず、呆然と立ち尽くしてきのこ雲を見続けていました。 夜になると広島市内の上空は一晩中真っ赤に染まって燃え続けているのが子供ながらに異様な美しさを感じましたが、私の記憶では3日3晩燃え続けて居た様に記憶しています。2日目頃からどんどん被爆に遭った人達がトラックで小学校の校舎に運び込まれて治療に当って居たと後から聞きました。 今でも想像しますとまるで生き地獄状態で有ったろうと思います。
私は市内に在る学校の事が気になり汽車も動き出した3日か4日目に一人で学校の安否を気遣い未だ所々煙がくすぼっている瓦礫で埋まった道を歩み始めましたが、無数の焼死体が其の儘放置された地面に立ち塞がり悪臭にも居たたまれず橋も崩れ落ちて居た状態だったのでそれ以上立入る事は不可能でした。川の水面や川岸にも多くの死体が重なり合って流れ居ました。 私は無我夢中で歩いていたのですが、ふと気が付くと汽車の駅から下車して小一時間は経っていたでしょうか、学校までは未だ遠くなので諦めて引き返し始めました。もうその辺りにはほんの数人しか捜し歩いている人しか見覚えていませんでした。 黒こげの電車の中にも焼死体を目撃しました。流石に駅(己斐駅)まで戻って来ると駅前の広場には彼方此方に筵が敷かれ焼け爛れた多くの人達が寝かされていて呻き声で助けを求めて居られた姿を目撃しましたが、手の施し様が有りませんでした。それらの痛ましい光景は今でもはっきり脳裏に焼きついていますが、それ以外の事は覚えていません。
広島の殆どの市民は原爆投下の日までに空襲警報は数回体験していても先ず空襲された事は一度も無かったので空襲の恐ろしさは全く体験していませんでした。 尤も軍港の有った呉方面では空襲で被害を受けていました。数回ほど空襲警報が有った時、宮島の上空をB29の飛行機が飛んでいるのを高射砲で砲撃していましたが高度が高いので全然飛行機に届かず、空しく空中で炸裂しているのを目撃しました。
こうして一旦書き始めると次々と当時の色んな事が連想されて来るものです。未だ僅か12歳の少年だった私は空襲の怖さ、戦争の怖さを直接体験しませんでしたが、これほどアメリカを憎らしく思った事は有りませんでした。 当時は未だ自分がハワイ生まれで米国市民権を保持していた事など意識した事も有りませんでした。
やがて終戦を迎え新制高校2学年の16才の年に父は私の将来を考慮した挙句、独りでハワイの伯母の元に帰らす事に決定したのでした。それ以来私の運命は完全に変化して皮肉にもアメリカ市民としての生活が余儀なく差し向けられ今日に至りました。朝鮮の南北戦争が勃発した時には私は徴兵適齢期でアメリカ軍人として駆り出され朝鮮で1年半の任期を終えて居ます。
私達の年代の者はアメリカで生まれても必ず日本の国籍も登録していたので2重国籍を持っていても指し仕え有りませんでしたが、アメリカの軍に籍を入れると日本国籍は離脱させられました。
ハワイやロスアンゼルスには比較的広島出身の移民が多く、当時の親達は子供には日本教育を身に付けさせる為に日本で育てられた者が多く、私もその一人でしたが、生憎日本と戦争が始まった為にアメリカに戻れなくなって戦時中は日本で暮らす結果となったのです。 終戦になってからアメリカに戻った者達の事を帰米二世と呼ばれて居ます。私もその帰米二世ですが、私達の年代の者が既に原爆被爆者の平均年齢75歳に達していますから、決して若い年齢では有りません。それに原爆体験者の体験話が語られる事も年々限られて来ています。 同時に現在の若年層の方達の間では次第に興味が薄れて来ていますから、今の内にしっかりと受け継いで核兵器の廃絶に力を注いで平安無事の世代を守って行って欲しいと願って止みません。