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平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

私の家内は認知症では無かった!?(その#2)

2008-10-30 23:47:23 | Weblog
下記の説明は此処に示すウエブサイトからCopyしたものを参考にしました。
http://www.health.ne.jp/library/3000/w3000690.html

手術で治療できる認知症!?特発性正常圧水頭症

シャント術とは、髄液の流れを良くするためのバイパス手術のこと。脳神経外科で施され、主に3つの方法がある。埋め込むチューブはシリコン製。材質がよくなって癒着などのトラブルも減ってきたため、多くの場合は一生埋め込んだままで問題ない。圧調整のためにバルブを頭皮下につけるが、バルブは圧調整と同時に髄液の脳室内への逆流を防止している。また、どれだけ髄液を流すか各人によって微妙な調節が必要だが、磁石で体の外から圧力を変えることができるバルブも登場。特に歩行障害の症状の改善でめざましい効果をあげている。

水頭症ってどんな病気?

脳は頭蓋骨の中で脳脊髄液(のうせきずいえき・以下髄液とする)という液体に浸かっている。髄液は脳内の腔(脳室)で毎日400-500ml作られ、脳や脊髄周囲を循環してから最終的に頭のてっぺんの静脈系へ吸収される。従って、1日に2、3回入れ替わることになる。水頭症とは、何かの原因でこの髄液循環がとどこおることで頭蓋内に髄液が過剰にたまり、脳室が拡大する状態を指す。

参考資料:
http://www.nanbyou.or.jp/sikkan/056.htm

1. はじめに
精神活動の低下(痴呆症状)、歩行障害、尿失禁を呈する高齢者のうち、著明な脳室拡大を認めるにもかかわらず、腰椎穿刺で測定した脳脊髄圧は200mmH2O以下と正常範囲であり、しかし、髄液短絡術(シャント手術)を行うと上記の症状が著明に改善する患者さんがいます。このような患者さんを、正常圧水頭症(normal pressure hydrocephalus、以下NPHと略す)と呼びます。

(家内の場合:正常圧水頭症(normal pressure hydrocephalus、以下NPHと略す)と呼ばれる病気と判断されました)

2. 発生機序
何らかの原因で髄液の循環不全が生じ、その結果NPHが発症すると考えられています。原因不明のものを特発性NPH、原因が明らかなものを続発性NPHと呼びます。続発性NPHの原因としては、くも膜下出血、頭部外傷、髄膜炎などがあげられます。
3. 頻度
NPHの正確な発生頻度は明らかではありませんが、痴呆症と診断された患者さんの5~6%が特発性NPHであると考えられています。特発性NPHの好発年齢は、50~60歳代であり、発生頻度に男女差はありません。
4. 症状
NPHでは、精神活動の低下(痴呆)、歩行障害、尿失禁の三つが主症状(三徴候)とされています。初期の段階では物忘れ、次いで自発性の低下、無関心、日常動作の緩慢化などがみられ、さらに進行すると無言無動といった状態になります。歩行障害はNPHの初発症状であることが多く、一直線上を綱渡りのように歩けなくなるのが特徴的です。症状が進行すると、立位や座位を保てなくなります。尿失禁は、三徴候のなかで最も遅くに出現する症状です。
5. 診断
上記の三徴候のいずれか一つ、あるいは複数を認め、頭部CTやMRIで脳室の拡大が確認されれば、NPHを疑うことになります。ただし、老人性痴呆でも脳萎縮にともなって脳室が拡大してくるので、NPHとの鑑別が問題になります。そこで、腰椎穿刺により約20~40mlの髄液を排除して、症状の改善がするかどうかを試す検査(髄液排除試験)を行います。髄液排除により症状が改善した患者さんでは、シャント手術の有効率が高いといえます。その他、RI脳槽造影・CT脳槽造影、頭蓋内圧測定、脳血流測定などを行うこともあります。

(家内の場合も腰椎穿刺により髄液を排除して、症状の改善がするかどうかを試す検査(髄液排除試験)を行いました。髄液排除した事により立ち上がって歩行が5,6歩出来た事でシャント手術の有効率が高いと判断されて手術に踏み切りました)

6. 治療法
NPHの治療は、シャント手術が唯一の方法になります。ただし、シャント手術が有効な患者さんであっても、発病から長期間経過してしまうと、治療効果を期待することは難しいとされています。シャント手術にはいくつかの方法がありますが、通常は脳室腹腔シャント(V-P シャント)ないしは腰椎くも膜下腔腹腔シャント(L-P シャント)が行われます。症状の改善を得るためには、ある一定量の髄液を排出させる必要がありますが、髄液の排出が過剰になると硬膜下水腫や血腫が発生します。このような合併症を防ぐために、最近では体外から磁石を使って圧を変更することができる圧可変式バブルを用いることが多くなっています。

(家内の場合もこの圧可変式バブルを用いています)

7. 予後
特発性NPHの60~70%前後の患者さんで、術後になんらかの症状改善がみられます。最も改善しやすいのは歩行障害、次いで尿失禁で、痴呆症状は三徴候のなかで最も改善しにくい症状です。
8. おわりに
シャント手術によるNPH の治療成績を向上させるためには、早期診断、早期治療が必要です。上記三徴候のいずれか一つでもあれば、NPHを疑って専門医の診察を受けることが重要です。

以上で説明された事総てが家内の症状に当てはまっていますので正常圧水頭症の病気であると信じています。 家内の場合、手術後2週間の入院中には目立つ症状の変化は見られませんでした。 1ヶ月後に新たにCT スキャンを撮りましたが以前と殆ど変化は見られなかったものの脳脊髄液を緩和させる調整をしてから2週間の間に僅かながら好ましい兆候が見られました。其れは今まで全く無関心であったテレビに注目する様になり、更には放映されている番組の内容に就いて質問までする様になりました。 又、私との会話を要求する様になり言葉がはっきりして来ました。リハビリの歩行運動には辛いと見えて嫌がって中々応じないものの、自分の意思表示をするようになった事は良い兆候だと思いました。 訪問して来る友人でさえも家内の動作や症状に活気の有る動きが気付かれています。  

毎週2度介護士が家庭訪問に来てリハビリを45分してくれていますが、可なりてこずらしています。 家内は傍で見ている私に歩行運動を嫌がって何度も助けを乞うので私はその場から離れて様子を伺っています。そんな家内を見ながらせめて独りで歩行出来るまでに丈夫になってくれるだけでも良いと願っています。 先日東京に住む家内の妹と会話を交わして家内の口調がしっかりして来ていると妹は感じたと報せてくれました。 現在でも毎週1,2回は必ず外食に連れ出して人々と触れ合える機会を作るようにしています。

彼女の次回の脳のCTスキャンは12月に予定されており、その時点の様子で再び脳脊髄液の調整が行われる事になっています。 其れまでにも少しでも新たな良い兆しが見られる様に望みを掛けて頑張って参ります

私の家内は認知症では無かった!?

2008-10-29 00:57:37 | Weblog
家内の症状が認知症であると宣言されてから早や3年余り経った。 その間にリハビリを続けながらも次第に体力は衰え現在では足腰もふらつき殆ど歩行不可能な状態にまでなってしまった。 勿論現在も歩行のリハビリは続けている。 認知症と認められて此れまでに見られて来た症状、鈍い動作や行動など軽い言語障害も含めてこんなものかと体験させられて来た。言語障害と言っても話が出来ない訳ではなく寧ろ無口になった事、時折聞き取れない表現を口にしたり、幼児言葉になったりする甘え言葉になる。大人しくなった部分、性質が可なり穏やかになりとても素直になった感じがする。元気だった頃の彼女とは打って変わった活力の失せた無言の人となった。話をすればちゃんと理解出来ているが、質問に対しては正しく応答出来ない。自分の年齢、日時、電話番号、住所などは正しく答えられない。認知症状で良く見られる記憶喪失は伴っているが、昔の記憶は良く覚えている。尿失禁の症状も有り常時オムツを必要とする。足を思うように動かせないので歩行が出来ない。普段の日常生活で当たり前に普通に出来ていた事が出来なくなる等の症状は全く認知症状と同じである。此れに良く似た症状が余り知られていない「水頭症」又は「正常圧水頭症」 (セイジョウアッスイトウショウ)   [Normal Pressure Hydrocephalus]と呼ばれる脳脊髄液が頭の内側で過剰に堪る病気が有り、高齢者に発症する症状で良く認知症と誤診される事が有るのだそうだ。 

家内は3年前に初期の認知症と認定されて現在に至って来たが、去る7月に或る特別な検査を試験的に試された。此処では詳細な説明は避けるが、先ず腰の脊髄に大きい注射器で液体を注入し脳に達するまでの過程をCTスキャンで追って記録を取り3日目にやっと脳に達したことが確認された。その2週間後(7月)、今度は同じ場所に近い部分の脊髄から試験管に2本を満たす量の透明な脊髄液を抜き取り(髄液排除試験)、その直後、即座に起き上がらせて床に立たせた所、信じ難い事実が皆の目前にして見せ付けられたのだ。  何と彼女は誰の支えも無く自力で真っ直ぐに立ち上がりゆっくりと歩み始めたのだった。正に奇跡的な動きが見られたのだった。僅か5,6歩の歩みであったが、今までの彼女には不可能な動きだったのだ。私は彼女に大丈夫なのかと訊ねたら唯頷いていた。自分の身体を支える体力も無いのに何故立つ事が出来たのか不思議に思えた。

9月の中旬に早速脳の手術(髄液短絡術=シャント手術と呼ばれる)に踏み切った。手術は約1時間半余りで無事完了、2週間の入院中は毎日リハビリが施された。  (続く)

運命の行方

2008-10-16 07:12:13 | Weblog
やがて愉しかった1年弱の学校生活が終わりを告げ、私は待ちに待った憧れの日本に居る父や姉と4年振りに体面出来るであろう事を夢見て日本に向けてカリフォルニアを後にしたのでした。日本に着くまでは次の派遣先の所属部隊は判りませんが、日本に到着して僅か3日以内に勤務する所属部隊が発表され何と私には朝鮮派遣の命令が下されたのでした。私はその時愕然としました。一体何の為に日本語通訳学校に志願したのだろうかとその悔しさは語り尽くせませんでしたが軍隊の命令に背く事は不可能で涙を呑んで従わざるを得ませんでした。

広島に住んでいた父には手紙で通知する以外には無くその悔しさを書いて報せる事しか出来ませんでした。 かくして私の厳しい軍隊生活が朝鮮の38度線の境界線、非武装地帯(DMZ)でのキャンプ生活を余儀なく過ごす事になったのでした。 幸いとその当時には既に朝鮮戦争は終戦を迎えた後でしたので厳しい危険からは免れました。私の目に写った朝鮮の山々は殆ど禿山となっていて赤土の埃を被っての煩わしいキャンプ生活を迎える事になりました。 日夜頑丈な鉄条網に囲まれたキャンプ内で過ごした朝鮮の冬は凄く厳しい寒さでした。キャンプの近くでは毎日何処かで銃声の音が鳴り響いていました。村も町も無い立ち入り禁止の区域なのでずーっとキャンプ内に閉ざされた生活でした。

私は陸軍の通訳として所属部隊の情報部に勤務させらていましたので任務は総て事務関係でした。時折北朝鮮の捕虜が連れて来させられると早速尋問をして情報を聞き出すのですが、若い年代の捕虜の兵士には日本語は通じません。そんな時は現地雇いの日本語の判る朝鮮人の通訳を通じての尋問となりました。敵の捕虜を尋問するのは生まれて始めての事でしたが、穏やかな雰囲気の中での尋問で乱暴な扱い方は一切されませんでした。 そんな或る日、私は夜警の任務に就かされた深夜、勿論独りで実弾を込めた小銃を手にキャンプの片隅で見張りをしていましたら外部から閃光信号の措置が設置されていたにも拘わらず鉄条網を上手く切り開いて、一人、二人と次々に侵入して来る黒い人影に度肝を抜かれ、4,5人入って来た頃を見計らって、先ず他の同僚達に報せる合図の為の銃声を空に向けて一発放ち、その後は連続の射撃で黒い影に向けて無我夢中で撃ちまくったのでした。数人は慌てて侵入した場所に駆け戻って逃げ去りましたが、逃げ切れなかった数人はキャンプ内の何処かに潜んでいる筈でしたが、明かりを点けて皆で探しましたが誰一人姿が見当たりませんでした。幸いに死者は出なかった様ですが、彼方此方に血痕が地面に残されていました。逃げ場を失った数名(不明)は必死で死に物狂いであの鉄条網を潜り抜けていたのでした。その証拠に血だらけになって引き裂かれた衣服や靴等が鉄条網に引っ掛かって残されていたのでした。想像も付かないその光景に皆一同驚きを隠せませんでした。 その逃げ失せた場所の鉄条網には到底人が通り抜けられるほどの隙間は殆ど不可能な状態のままでしたから。私は生まれて初めて銃を人に向けて発砲しましたが、咄嗟の出来事で躊躇している暇は無く私も必死で対応した瞬間の行動でした。私の発砲に驚いて飛び起きて出て来た同僚の兵士達は着の身着のままで銃を手にテントから出て来ましたが皆も始めての怖さに震えて怯えていました。 翌朝、私は長官から私が取った行動は勇敢だったと褒められましが、もう二度と経験したくない出来事に戸惑いを感じずには居れませんでした。然し、たかが此れくらいの出来事で挫ける様では男では無い、又、兵士として訓練を受けた甲斐が有りません。 実際に戦場で戦った兵士達の厳しさを考えればとても比較出来る事では有りません。 そもそも軍隊生活は若者に忍耐力や精神力を補い人間としての磨きを掛ける大変貴重な体験を与えてくれます。生存する事の厳しさ、融通の利かない軍の規律などを体験してこそ初めて強い人間として成長出来るものだと云う事を現代の若者達に思い知らせてやりたい気持ちです。尤も現在の日本は戦争を放棄している国ですから戦争の厳しさを体験する事は最早出来ませんが、平和な生活の中にも規律正しい環境の中で育って欲しいと思います。 

私は広島の原爆に生き残り、そして今度はアメリカの軍隊に身を置き朝鮮戦争の動乱に運命を掛け、現在やっと総てから解放され残された運命を頑張っています。

遂に米国陸軍に志願決心

2008-10-14 16:20:46 | Weblog
私がハイスクールで2年を過ごし卒業した頃は丁度朝鮮戦争が未だ激しかった真っ最中でした。私達の年齢の若者は皆徴兵適齢期(?)で登録させられていましたので、皆次々と徴兵させられていました。 私と同年齢の従弟も徴兵の報せを待たずに海軍に一緒に志願をしようと誘ってくれましたが、海軍に志願すれば軍役の年期が4年と長く、其れよりも私は辛い船酔いが尤も苦手なので断りました。その後間も無く彼は独りでさっさと志願して入隊しました。

私も遂にその決断に迫られ、自分の英語の未熟さを少しでも上達させる事が出来ればとの思いで陸軍の通訳学校を志願して3年の軍役期間を勤める事にしたのでした。私が志願してハワイで16週間の厳しい基礎訓練中に私宛の徴兵の通知を受け取りました。 因みに徴兵された場合の軍役は2年間でした。 徴兵された人達は基礎訓練が終ると本人の派遣先の選択資格は無いので殆どの人達は真っ先に朝鮮の戦場地域に派遣されていました。 私は基礎訓練の終了後、直ちにアメリカ本国のカリフォルニア州のモントレー市に有る陸軍通訳学校に送られて其処で1年弱の日本語クラスに所属させられました。 クラスには私を含めて15,6人の生徒からなり、殆どが白人将校や上階級の下士官(軍曹)達で既に日本に駐屯した経験を持ち片言の日本語が話せる程度の者ばかりでした。 勿論日本語の判らない二世達も他のクラスに居りました。教師は勿論皆日本人で女性の教師も含めて2,3人居り私達のクラスを担当していた教師は中年の女性教師でした。 

私の場合は日本語クラスで逆に英語を習得する事が目的でした。 この学校に通学している間は軍の厳しい規則は無く、ごく普通の学生生活を営む事が出来、既婚されていた人達は家族と一緒にキャンプ外の市内で住居を持つ事が出来ましたが、独身者は皆キャンプ内に有る兵舎での団体生活でしたが毎朝の点呼だけは決められた時刻の6時までに起床しなければなりませんでした。 クラスが終れば翌日まで自由行動なので大変楽でした。 週末の土、日曜日は勿論休日で点呼も無く自由行動が取れました。モントレーの町はイタリア人が多く住む漁業の町でも有りましたが、この学校があるキャンプはそのこじんまりとした美しい海に面した小高い丘に有りました。 其の町で初めてイタリア人の好むピザと言うものを知りました。日本の小さいレストランも有ったので日本食には困る事無く毎週一度は日本食を楽しむ事が出来ました。 

クラスではお互いに日本語と英語の会話ばかりで教えたり、教わったりでとても愉しく各自の階級には全く拘る事無く親しく共に勉強する事が出来ました。 面白い事に日本に駐屯した経験者の殆どが喋る日本語は日本の女性から習った日本語と見えて話し方が当然女性の話し方になり、女々しく優しい話し方をしていました。 其れに益して女性の教師が教える時も当然女性の話し方で教えていますので教わる生徒の話し方は中々直らない訳です。 なので私はしょっちゅう彼らには女性と男性の話し方の違いを教え込んでいました。この学校は可なり大きい規模の陸軍外国語学校で、主に力を入れていたのはロシア語、ドイツ語、中国語などが日本語に続いて多くの生徒が修業させられていました。服装は勿論正式な軍服姿で通学させられていました。 (続く)


ハワイで知り合った友達

2008-10-14 16:06:55 | Weblog
私がホノルルのハイスクールに入学して初めて知り合った学生の殆どは沖縄の人達でした。 この時初めて沖縄の人に就いて色んな事を知らされました。 ハワイに来るまではこれ程多くの沖縄の人が住んで居ようとは夢にも思っても居ませんでしたし、出合ったのも初めてでした。 唯、沖縄県の人と言うだけの認識しか頭に無かったので、彼ら独自の文化を持ち沖縄語が有る事さえも思っても見ませんでしたので大変驚きました。 彼等同士の会話は全く日本語と異なり何一つ理解出来ませんでした。 そして彼等の話す日本語には可なり独特なアクセントが有りましたがちゃんと理解は出来ました。 更に気付いた事は彼らの名前の名字でした。 読めない漢字の組み合わせた名字、更に名字の読み方、変わった独特な名前や同じ名字の人が多い事などでした。 勿論普通の有り触れた日本の名字の人も多く居られたので名字だけでは区別は出来ませんでした。 一般に沖縄の人達は男女共に毛深く堀の深い顔付きの人達が多く美男、美女の人が多く目立ちました。 皆凄く気立ての良い青年ばかりで仲良くしていました。 皆良い方達でした。(続く)

レッドロック キャニオン近辺の山岳地帯 *ラスベガス*

2008-10-09 16:33:58 | Weblog
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レッドロックキャニオンに迫る標識


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タグはnon_nonさんから拝借しています。 毎回有難うございます。

ラスベガスの気候は今月に入ってから特に涼しさを増し、大変過ごし易い爽やかな毎日を送っている。 この期に乗じて久し振りにレッドロックキャニオンの直ぐ隣り合わせに有る山岳地帯に設けられたピクニック グラウンドを訪れて見た。 其処には最近造られたと思われる木造の歩行道が険しいごろごろした岩肌の山岳地帯の麓に沿って散策出来る様に綺麗に造られていた。決して日本の様な美しく紅葉した草木は生えていないが、荒々しい自然の風景の中にも平和な安らぎが感じられた。 涼しくなった今時を狙ってか数十人の子供や犬を従えた家族連れ達がお互いに乗り合わせてカメラを手にゆっくりと散策して愉しんでいた。 ゆっくり歩いて約40分の散策を車椅子に乗った家内と寛いだ秋日和だった。 今日の写真はセットを間違えていたので総てが青っぽく写った失策となった。 

ハワイでの最初の就職口

2008-10-08 10:32:00 | Weblog
ハワイに来て初めての就職口は日本人経営の職業周旋屋を訪ねて見付けたのが日本人夫婦で経営するこじんまりしたパン屋だった。その夫婦は日本から来られていて総て日本語で話すのでその点は楽だったが英語は進歩しなかった。二人とも非常に親切に色々と教えて下さった。仕事の内容は一応ヘルパー、つまり何でも手伝う仕事なのだ。 パン屋は朝の仕事なので早~い。家からはそれほど遠くは無いが、歩けば片道30分は掛る。 毎朝主人が出掛ける時に家まで迎えに来てくれるのが朝の2時半。時々寝坊していると警笛を鳴らして報せて呉れるのだが、その為に夜中に寝ている時にも夢の中で警笛が聞えて何度も飛び起きたりしてうなされた事が有った。先ずは最初から毎日広い洗い場で片っ端から洗い物を貯めないようにどんどん洗って片付ける。片付ける端から次の用意に使用する..の繰り返しで汗びっしょりになる。

大体の毎日の仕事の回転振りが掴めた数日後から早速カップケーキやバターロールなどの作り方の見習いが始まり、2週間目からは自分に任される様になった。其れを作っている間に主人は一旦家に戻り奥さんを連れて来て朝の出荷の用意を手伝わすのだ。 夜明け前までに済まさねばならぬ仕事だった。出荷の用意が出来る頃配達をする人が自分の娘と息子を手伝わす為に連れて来る。その二人は私とほぼ同年齢か年下でやはり日本から来た者同士だったので直ぐに親しくなり、一緒に仕事をしていて愉しかった。

ブレッドやドーナツ、その他は主人が一人で総て遣りこなしていた。未だ暗いうちから温かい焼き立てのパンを近所のお客達が買いに来始め結構忙しくなる。 中には焼き立てのパンを買って帰り、直ぐ舞い戻ってこのパンは未だ焼けていないと戻しに来る客が居たが、それは、未だ熱い内にスライスしたのでナイフにくっ付いてスライス出来なかったのだった。然し焼き立ては何でも美味しい。 

だんだん仕事に慣れて来ると要領が良くなり手も早くなる。 そんな或る朝の事、主人が何時ものように奥さんを連れて来る為に帰った間にバターロールを注文に応じてOvenで焼いていた間に、何と私は居眠りをしてしまったのだった。毎日の寝不足で疲れていたのだ。其処へ主人が戻って来て黒焦げになっているバターロールを無口で取り出して捨てていた。 心の中では怒っていたが口には出さなかったのが私には凄く応えた。私は自分の不注意を悔やみ謝ったが、彼は黙って直ぐに次のバターロールを作り直していたのだった。 注文に間に合わす為に私を叱っている時間は無かったのだ。私が後悔して嘆いていたのをちゃんと知っていたので何も責めなかった彼には感謝した。 

幸い首にもならず私がハイスクールに入学するまで働かせてくれた思い遣りの有る主人だった。当時の彼は未だ30歳後半の若さだったと思う。今思うと彼は年齢に似合わずしっかり者だった。 パン屋の中に入ると直ぐにパンに使うイーストの匂いが鼻をつく。毎日朝帰り(?)の時間は10時半過ぎだった。昼と夜が逆な世界に働く事は二度としたくないと心に決めた。 あの時からパン屋に勤めていたら案外立派なパン職人になっていたかも知れないと何度も思った事が有るが後悔はしていない。

初めて体験したハワイでの生い立ち

2008-10-06 08:21:46 | Weblog
初めて生後14年半振りに舞い戻って来たホノルルに迎えに来てくれていた伯母は私の父親の姉で何と12人目の子供を最後に生んで間も無く夫に事故で先立たれ、英語に不自由しながら一人で大変な苦労をして育て上げたしっかり者、上の七人の娘と長男息子一人は既に片付き、最後の三人娘と末っ子の息子一人、それに長男夫婦と3人の孫達合わせて10人の大家族で暮らしていたのでした。 末っ子の息子は私と同年齢でした。 その大家族の家に私が加わったのですから尚更大変賑やかになりました。 私は末っ子の息子と同じ部屋で暮らす事になりました。生まれて初めて寝るベッドは上下に組み立てられたベッドでしたが、私がベッドに慣れていないので下のベッドを使用させてくれました。 2日目の明け方に私はそのベッドから床に転げ落ちたのでした。板の間の床でしたので転げ落ちた時に大きい音がして、従兄姉達は目を覚ましたらしく、翌朝起きたら皆からくすくす笑われてひやかされ非常に恥ずかしく思ったもんです。 日本から持参した衣服は総て黒のズボンと白いシャツなので伯母が早速アロハシャツを作ってくれて、それ以後毎日アロハシャツばかりを着て過ごしました。ハワイで初めて過ごしたお正月は暖かく全くお正月気分は湧きませんでしたが、家族揃って日本の昔風の木の臼でお餅をついて頂きました。

日本語が理解出来るのは伯母と長男だけで、若い従姉達は片言の日本語しか理解出来ませんでしたが、珍しがってかとても親切に良く話し掛けてくれました。
末っ子の息子は高等学校の2学年で直ぐに仲良くなり一生懸命に英語の発音を教えてくれました。私の父親は英語も日本語も達者で終戦後は進駐軍の通訳をしていましたが、私には少しも英語に力を入れて教育してくれていませんでしたので学校で習っていた僅かな英語力だけしか理解出来ず殆ど役には立ちませんでした。
然し毎日の英会話で少しづつ理解出来るようになりお陰で割と早く習えた方でした。何はともあれ、先ず英語を早く習わなければ何も出来ませんので早速従姉に連れられて或る教会で外国から来た人達を専門に教える半日の英語のクラスに加えさせて貰い其処で約2ヶ月間英語の基礎を教わりました。生徒の年齢はまちまちで、色んな人種の人達と一緒でした。 先生の中には先ず日本人女性校長の方と白人女性の先生が2,3人居ました。 そのクラスに通学するのにバスの乗り方を従姉に教わり、日本式にバスの席が空いたら直ぐに座り込んだ自分に注意されて男性は絶対に座る前に女性が立っていたら女性に先ず席を譲る事を教えられました。それ以後私は絶対に席に座ることはしませんでした。 

伯母は料理が大変得意でしたので娘二人を従えて小さい「オカズヤ」、現在で知られる[Fast Food]のお店を経営し稲荷寿司、おむすび、天ぷら、おかず等でハイスクールの近くだったので良く繁盛していました。 毎朝3時頃には起きて支度を始め、私も勿論お手伝いをしていました。 暫くして私は自分で生まれて初めて正式に日本人夫婦が経営するパン屋に就職口を見付け其処でも毎朝2時に起きてパン屋で働きケーキの作り方も教わって半年勤めました。 毎日朝と夜の生活が逆で睡眠不足になりがちになり、一緒に住んでいながら伯母や従姉弟達との会話もろくに出来ない日が続き、英語を習う機会も有りませんでした。その内に9月から始まるハイスクールの一学期に2学年から入学出来るように手続きを済ませて晴れて学校に戻る事が出来ました。 

アメリカの学校は1年に2学期しかなく、1学期は9月から始まり、2学期が1月から夏休みまでです。 私の英語の学力はやっと英会話だけ話せる程度でしたが、9月から1年ずれて従弟が通っていた同じハイスクールの2学年から入りました。初めてのアメリカのハイスクールにいきなり入学しましたが、総てに慣れるまでは戸惑いの毎日で、その内に日本から来た私同様の数人の学生と知り合い直ぐに親しくなって遂日本語を喋ってしまう始末。でも大変心強くなり学校が愉しくなりました。 そのハイスクールはホノルルでも一番大きい学校で然も日本人(二世)が最も多い事で知られていました。 類は類を呼ぶで、意外と日本から遣って来た私の様な日本人の学生が多く居たのに驚きお互いに親しくなって昼休みなどは何時も一緒に過ごすようになっていました。学校で先ず驚いた事は日本の様に指定された学級の教室で各科目毎に先生が来て教えるのではなく、生徒が選んだ科目の時間表に従って各教室を廻って授業を受ける事でした。それに同じ科目を選んだ学生の中には学級の違う生徒と一緒に教わるのです。 飽くまでも指定された必須科目と選択科目は単位制度なので学年には無関係なのです。どの科目を取っても教科書の内容の半分以上は理解出来ませんでしたが、先生の説明だけでどうにかついて行けました。 教科書は総て学校から貸し出されているので勝手に色々とメモを書き込んだり出来ませんが、毎日辞書を頼りに単語の意味を理解するだけで精一杯でした。理解出来ない英語で知らない事を教わるのですから、自分の想像力だけを頼りの毎日で必要な学力が人並みに付くはずが有りません。

ハイスクールに通い出して間も無く放課後に毎日夕刊紙を配達する仕事を見付け直接新聞印刷会社に出向いて400軒近い数の配達先の家に自分のおんぼろ自動車で配達を終えて帰宅していました。 私がパン屋で働いて貯めたお金で初めて自分の自動車を新聞配達の為に購入したのは1931年型の古いFord車でしたが早速従弟から運転を教わって大変色んな面で便利しました。私が担当していた区域は美しい山の麓に立ち並ぶ住宅地でその古いフォード車でその地区に乗り入れると何時も3,4人の子供達が待ち受けていて古い自動車に物珍しく惹かれてか両側にぶら下がって配達を手伝ってくれていましたので大変助かりました。一軒づつ自動車から降りて配達していたらとても2時間以内では終りません。彼らはてんでに新聞を手に持って小走りに走りながら自動車について来るのです。 新聞は私が予め400軒分の新聞を固く丸めて固定させて有るので各家の玄関先に投げ込んで行くのですが、時には玄関先の窓ガラスを割ったり、屋根の上に投げ上げたり、水に濡らしたりしますが、子供達を叱る事はせず、私が責任を持って弁償したり新たに配達をしたりしていました。 又或る時は飼い犬に子供の足を噛まれたりした事も有りましたが、それでも子供達は愉しく喜んで一緒に走ってくれました。配達の仕事は好きでしたが、月末に各家に集金に廻る時が中々はかどらず完全に集金し終わるのは1週間後になります。 集金した中から会社に支払う金額が出来た時点で支払いを済ませ、その後の残りの集金代は総て自分の収入でした。 
暫く経ってからその自動車に故障が多い事から今度はジープを購入して配達が更に楽になりました。

その頃から私は伯母の家から出て学校で知り合った日本から修行に来ていた浄土宗のお坊さんの計らいで浄土宗のお寺の境内に建てれていたハワイ大学生用の二階建ての寄宿舎に入れて貰う事が出来、一部屋二人の小さい部屋を借りて生活をし始めました。 その寄宿舎には他の島からハワイ大學に通う生徒が殆どで約5,60人位常に居ましたので大変愉しかったです。 朝食と夕食付で大きい日本風呂も付いていました。 食事は勿論総て日本食でしたから大満足でした。 その代り毎週日曜日の朝は早く7時にはお寺の鐘を合図に本堂に入り日本語のお説教を聴かされました。現在でもその浄土宗は新たに建設されたフリーウエイが直ぐ傍に出来ましたが同じ場所で受け継がれているそうです。その知り合ったお坊さんは京都出身のお寺の住職の一人息子さんでしたが、数年後、その人の紹介で現在の家内と縁組と相成ったのでした。 そのお坊さんもハワイ生まれで京都で育った人で私より4歳先輩ですが、住職のお勤めから離れて自らアメリカの陸軍に志願され沖縄にて長年駐屯した後除隊された後も軍属の身で留まりハワイに戻って引退されています。 兄同然に慕って来た彼は現在も病弱ながら夫婦共に健在でハワイで暮らされています。

想い出のハワイへの初航海の旅 1949年

2008-10-03 15:26:37 | Weblog
私はハワイのホノルル生まれで一歳半の時両親と兄姉達と共に日本に連れて行かれました。以後広島で育ち終戦を迎えました。

何故か毎年10月3日を迎えると自分が始めてハワイに戻って来た日(1949年)を不思議と良く忘れずに覚えて居るのです。何と今年で59周年目を迎えます。 日本の新制高校2学年を中退して16歳にして単身でハワイの知らない伯母を頼りに神戸を経ったのでした。 初めて体験する初航海の旅にわくわくしながらも不安な気持一杯で見送りに来ていた父と姉を後にして手を振る姿が見えなくなるまでデッキに噛り付いていました。 初めて体験する船旅はPresident Wilsonと名付けられた豪華船で先ず神戸から横浜に向かった最初の夜は荒波で早速船酔いを体験しました。 その翌日いよいよ横浜からハワイに向う船旅が始まりましたが、最初は総てが好奇心一杯で物珍しく船内を物色して見歩いていましたが、その内に船酔いが始まり最初の3日間は食事を取る事はおろかベッドで身動き一つ出来ない状態でベッドとトイレの間を行き来して死ぬ思いで苦しんでいました。 生まれて初めて自分の身内から離れて英語も理解出来ない自分は此れから一体どうなるのかと思い悩み、もうこれきりで二度と日本を見る事は出来ないのだと凄く悔やみました。 

4日目頃からアメリカ本国のサクラメント市に向うのだと言う親しみの有る同年代の青年から声を掛けられ、親しくなって励まされ一緒に食事をするようになりました。 彼のお陰ですっかり気分を取り直す事が出来ました。船酔いに慣れて来たら船内が愉しくなり不安も無くなりました。良く覚えていませんが、ハワイに着く3,4日前頃、時差の調節の為同じ日が二日続いた日が有り驚きました。 10日目に初めて島が見え始め、其れが憧れのハワイ、ホノルル市が有るオアフ島だったのです。 
島の傍まで近付きながら生憎と港では丁度港湾ストライクの真っ最中だった為に港が完全封鎖されていたので入港出来なかったのです。 暫く海上で停泊していましたが、その間デッキから見下ろしていた真っ青な海中には大きい鮫がうろうろと気持ち悪く泳ぎまわっていたのを初めて見てぞーっとしました。 やがて中型のボートが近づいて来てホノルルで下船する船客を次々と陸まで運び始めやっと無事に上陸する事が出来ました。 其処で初めて迎えに来ていた見知らぬ伯母や従弟達と出会ったのでした。 私は1歳半で日本に行ったので彼達も初顔合わせでした。 お互いに顔写真さえも持っていなかったのですが、見て直ぐに判ったのでしょう。 彼らにとっても私が来た事で物珍しく、温かく喜んで迎えてくれましたので全く不安は有りませんでした。 島に降り立った途端に何とも云えない独特な甘い果物の香りを最初に感じました。その甘い香りは何時ハワイに行っても同じ香りでした。