ヨハネによる福音書 12章。
40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
41 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
42 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。
43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
48 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
*イエスキリストを信じる者は、イエスキリストを遣わされた方を信じるとは、
真実を司る者=真実の聖書。
イエスキリストを遣わされた方=神ヤハウェ=神ヤハウェにそっくりな子は聖霊。
またイエスキリストを見る者は、わたしを遣わされた方を見るとは、
将来イエスキリストに会う者は、神ヤハウェにそっくりな聖霊とも会うという意味。 *神ヤハウェを見る者は塩になって死ぬから、だからそっくりな子なのである。
聖書を信じる者は、洗礼者ヨハネを信じ、また将来イエスキリストと会う者は、洗礼者ヨハネとも会うと言う意味合いになる。
わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。とは、
過去生で聖書の救いを信じた者は、現代で偽りを信仰せずにすませるためと読める。
わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。とは、
過去生で聖書の救いを信じずに死んだ者は、現代で偽りを信仰させられ、自分の意志で神の裁きであるワクチン接種するという意味合いになる。
「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。とは、
神ヤハウェが罪人の思考に制限を加え、偽りを信仰するように強制させられている。過去生で悪さをしたため、救いの対象ではなくなっていると解釈できる。