ローマの信徒への手紙 9章。
7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
9 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。
10 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。
11 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
12 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
13 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。
14 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
15 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
16 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
17 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
19 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
*イサクの子は弟ヤコブと兄エサウである。
肉そのままが神の子孫ではない=聖霊の子孫は消滅したので、ヤコブの遺伝子(肉)は消滅した。
約束の子=聖霊の子孫。
エサウの子孫である日本人の肉体に、約束の子(聖霊の子孫)の精神を移植し、現代に第1の復活である。
「兄は弟に仕えるであろう」
*弟はヤコブであり、聖霊である。将来の神の城の王である。
兄はエサウであり、聖徒はエサウの子孫の身体を得て復活している。
つまり、王に仕える者は兄の子孫である。
「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」
聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
*現状の日本で救いの対象である約束の子孫は14万4千人と書かれている。
つまり、それ以外は死ぬ。
エサウ系の日本人であっても、約束の子孫でなければ死ぬ。
カナン氏族は神に創世記時に呪われたので、日本人は最初から偽りを信仰する者として出現している。
パロはエジプトの支配者である、聖霊の子孫はエジプトで苦しめられた。
パロや日本人(罪人)は神の力を表わす為に、最初から悪役として作られた。
陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
*書いてある通りだ。
この世界を造ったのは神だ。
この世界の登場人物も神が作った。
悪役を作り上げるのも神だ。
だから前に俺は、聖書とは劇だと書いたのである。
つまり、神の劇なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます