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震災から一年

2012-03-11 14:46:00 | 私生活
あんな
揺れは二度と体験したくありません。
でも、自然には人間は勝てないんだと、実感。
食事をすること、携帯を眺めること、テレビを見ること、トイレやお風呂に入れること。
本当に素晴らしいことですよ。
ありがたいと思っていたほうがいい。

実は母が震災以来、気弱になっていました。今もそう。
いや、震災の前にも大きな地震があって、買物に出かけていた私が電話をすると
「早く帰ってきて!」
と、泣き叫ぶような声が聞こえた。
母は小さいころ、大きな地震に遭い、それがトラウマで小さな揺れでも怖がる。
何か、準備でもしておいた方がいいかなと考えていた矢先の震災でした。
数日前の地震で乾電池や備蓄品がなくなる事態になっていました。

実は私、職場に憤りを感じていました。(今もだけどさ。)
考えることがあり、その決断を下していた。
数日前の余震の際はその時も大きな書店で書物を開いていたところだった。

3/11 震災の起きた時刻、私は入浴介助中で、湯船の水が半分以上なくなった。
利用者は
「寒い、寒い。」
と、叫ぶし、一体何のことなのか、何かのいたずらなのか、分からないまま、みんながあつまっている食堂へ。

余震が続く。
一体いつまで続くのか。

友達から安否確認のメールが届く。
不思議なことに、返せない。受けられるのに返せない。
とりあえず、災害ダイヤルとツイッターでとりあえず無事を知らせる。
「あと何時間で終わるさ。」
と、淡い期待を抱いていたが終わらない。

電気がつかず夜を迎える。
心配になったのは数日前に騒いでいた母のこと。
何度も電話や姉にメールをしているがつながらない。
さすがに不安になり、一旦帰らせて欲しかった。

悩んでいたが
「早く帰りなよ。」
と、言ってくれた人もいたし、同じ方向で帰る人がいたので帰ることにした。
主任は不在で、係長にだけ伝えて帰ることにした。
本当に申し訳なかった。

帰るとき、やっと状況が車のテレビから知る事ができた。
こんなにひどいのか。
仙台の街は恐ろしく暗くて、変な感じだった。

家に帰れば、母が毛布に包まっていました。
年甲斐もなく、
「いがった、いがった。」
と、大声で泣いた。
本当につらかった。

母は横になることが出来ないで、椅子に座っていた。
具合が悪くなるくらいの揺れが続く。

余震が続く、本当にいつまで続くのか・・・。

翌日職場に行ったら、
「こんなときにいなくなるなんて。」
と、非難を浴びた。
やっぱり、職場放棄したから、当たり前だった。
つらかったな・・・。

翌日、新聞は奇跡的に届いて、状況が無残にしらされた。
津波が起きたんだ。
先日の余震では陸前高田の友達は大丈夫だったのか気になったので、連絡したけど大丈夫だったのか?

職場に行っても余震が続く。

食事も非常食では間に合わず、テレビで見た戦争中のことを思い出していた。
中には利用者は落ち着かなくなっていた。
私が好きな利用者も平静でいられなかったと思う。すごく怒りまくっていた。
残念なことに、うちの職場では利用者のことを案ずる職員はあまりいなかった。自分の事しか考えられないだろう。
会話を聞いていれば、自分の事しか考えていなかったな。
それか、悪口ばかり。

苑長が話していたのは
「職員から
『食事が足らない』
なんていわないで下さい!
利用者だって食べていないでしょう。」
と、涙ぐんでいたことだ。
あの状況では誰もおなかいっぱいには食べられない。
どうしようもない苛立ちを感じていた、みんなで。
利用者だってかぼちゃ一切れだったもの。

電気は一番早めに、水とガスはしばらくしてから復旧した。
本当にライフラインの寸断はつらい。
食器を洗う水、結構使うんだよね。
近くの公園に水を汲むのが日課となる。

買物にいけたのは10日ぐらいたってからだと思う。
今思うとがむしゃらに買っていたな。

バスは走っていたが、鉄道、地下鉄は動かない。
バスもいつ来るか、分からなかった。
しばらくは自転車通学だった。片道40分ぐらい。
みんな同じように思っていたようで、中国の風景を見ているようだった。

それから、知り合いの強力な絆。
長年あっていなかったけど、連絡を密にとっていただき感謝です。

遠方にいる友達からも物資も送ってもらってありがとうございます。

気仙沼と陸前高田の友達の身内は被害にあった。
津波って容赦なく人を巻き込んでしまう。
涙が止まらなかった。

2日間はラジオだけが情報源だったのですが、ちょうど美里さんがラジオ番組のレギュラーを福岡で持っている時だった。
友達から震災が起きてからのすぐの放送の音源をもらい、聞いてみると美里さんが涙ぐんでいた。

この放送を聴いて私はメールを送ることにしました。

「美里さんやリスナーの方のメッセージを聴いて、思わず涙ぐんでしまいました。
お気持ち、充分うけとりました。ありがとうございます。
本当に各地から心配していただいて・・・日本ってひとつのチームなんだと痛感しました。
ひとりじゃないってことも強く感じました。
今回の震災ではラジオの力、音楽の力が私を元気にしてくれました。
放送で、美里さんは何をしていいのかと考えていたようですが、
ラジオでもテレビ番組に出ていても、美里さんが届くようにとココロをこめているのがひしひしと伝わりました。

震災だから、自粛するかもしれませんが、私は正直、嫌だなと思いました。
色々と兼ね合いがあるかもしれませんが、かえってこんな時だからこそ、やって欲しいと思います。」

メールを読んでいた美里さんの声が心なしか震えていた。
それから見ず知らずの方から、マシャのラジオの音源を送ってもらい聴けてうれしかった。「あ、安部礼司」の緊急生放送も聞けてよかった。
ラジオの力、すごいです。

なんだかとりとめもなくつづってきたけれど、私は今できることを考えてみた。

ライブに行くこと、働くこと、生きること。

本当は4/30の美里さんの大阪公演を参加するのをやめようかと思ったのですが、トピックスを読んで参加した。贅沢だけど、行きははやぶさのグランクラス、帰りは京都から夜行バスという強行軍。

いけるところは行ったな。

「元気だよ」
と、仲間たちに伝えたくって。
もちろん、アーティストのパフォーマンスを見て元気になりたかった。

お願いがあります。

もしも被災地名産のものがあったら、ぜひ購入をお願いしたいです。
野菜でも何でもいいです。

今日は粛々と過ごします。

取り留めのない文章になってすみません。

本当に日々生きていることに感謝。

また逢いましょうね、どこかで。

あ、ブログ閉鎖のような感じになったけど、もちろん続きます。