先週から何冊か、自傷行為に関する本を読んでいる。
学習心理学の授業で、随伴性行動の嫌子/出現による実験例で自傷癖のある少年への行動的介入を取り上げた際に、そもそもの自傷行為について少し触れた。「自傷行為は周囲の注意を引くことが痛みよりも勝る好子反応になりえるから起こる現象であり、他人が居ない環境では出現しないことがほとんである」というのを知り、しかし、私は人との関わりが薄れていくにつれて自傷が深刻化しているのに気付き、その「ほとんどの場合」以外を知りたくなったのがきっかけであった。
毎日、授業が終わった後に図書館が閉館するまで図書館でレポートを書いたりして過ごすのだが、息抜きに読み始めたら、やはり小6から身近に感じ、自分自身が現在進行形で抱えている問題であるので、どれも興味深く親しみを持って内容が迫ってくる。
なぜ自分が自傷行為をするのか、終りはあるのか、まだ答えは見つからないけれど、他人の研究や考察をみるのは痛くもあるが発見も多い。特に、「確かに、私もそうだ」と自覚がなかった感情や行動が見つかるのがおもしろい。
先日読み終えた、2006年に出版だれた『〝消えたい”症候群 -リストカットとオ-バ-ド-ズ生への処方箋を考える- /山本紀子』では、数人の自傷経験者から直接聞いた話が載っていて、論文のようにはっきりとした答えの出る類の書物ではなかったが、共感できる部分や関心しかところがたくさんあった。その中でも印象に残った部分をここに残しておこうと思う。
以下は『〝消えたい”症候群 -リストカットとオ-バ-ド-ズ生への処方箋を考える- /山本紀子』からの引用である。
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理子は考えた。走り続けて、それでも息が切れて走れなくなるときが来るとしたら、怖い。理子は一日一日生きることが怖くなった。
リストカット。そしてボーイフレンド。何かに依存しないと「落ち着かない」と理子は言う。ちょうどいい温度がわからない、とも訴えた。何かに頼らないと、精神のバランスが保てないと言いたかったようだ。
自傷や自殺は、苦しみから逃れるための緊急手段だった。
「切っちゃいけないと思うとよけい切りたくなる。楽になるから」
葵は手首を切り刻んで傷ついた自分と向き合い、生きていることを確認して、血を流して、ほっとする。
甘えられるとわかった人にはとことん甘えてしまう。距離の取り方がわからない。
一方「死にたい」という直接的な表現をする人のそれは、消えたい人間のそれより大きい。根本にあるのは、見捨てられることへの恐れだ。
思春期に悩み(特に家庭の)が解決できないと、落ち込みは長引きがちだ。20代後半になると、ますます回復しずらくなり、うっくつも深まる。
大人にできることがあるとすれば、「いいよ」という安心のサインを小さいころから出し続けること。過剰に悩んでしまう人たちは、受容の言葉をかけてもらっていない。欲しかったレスポンスをもらったことがない。だから自信がない。
自傷する子は自分が自分でないような非現実感をもちやすい。
過食もリスカも、どちらも自分を守る手段。いやなだけだったら続かない。必要があって続けているうちに、依存になる。
いまの子は、横並びに必死になっている。必要以上に仲間の動向を気にする。家で見捨てられ、友達づくりでも失敗してその場からはずれたら、居場所がなくなると思っているのかもしれない。
『Cocco』(スイッチ・パブリック)より-「こっこは小さい時から『できる子』じゃなきゃならなかった。できない自分を許すことは、死ぬよりダメなことだった」
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以上が、私が本書を読みながら感心し書き写した部分である。
自傷することを「逃げ」や「救い」にしていること、始めるきっかけはとてもささいなことだったけれど、いつのまにか依存し生活の一部になってしまっていること、この本に記された人達はどこも自分とリンクしていた。家庭に問題がなかったにしても、ODで自殺をはからないにしても、この本の登場人物はどこか自分であった。
けれど、他人と共感できたからといって、この行為が世間に認められるわけでも、自分の中で完全に納得できるわけではない。それは十分わかっている。けれど、少しだけ、寂しさが和らいだような気がした。
そして、この本に記された何人かは、その後ODや自傷によって亡くなっていることをうけて、やはり、どうしても、うらやましいと思っていまう。私は「死」というものに対する憧れのようなものを捨てきれずにいるんだとはっきりした。
「死ぬために切ってるんじゃない」と、常習的なリストカッターたちのほとんどが言うと思う。私もそうだ。私の友人たちもそうだった。でもどこかで、「死に近づきたい」という気持ちがあって、リスカと死ぬことは全く別の次元に存在するんだけど、ごくたまに、不図、自傷と自殺がつながる瞬間がある。私以外の子たちも経験したことあるんじゃないかなぁと思う。
私は、リスカやアムカを始めた時、「死ぬのに近づく練習」と思って切っていた。「死のう」でも「死ぬ練習」でもなく「死に近づく練習」だったのだ。今も、「気持ちを自殺に近づけたい」と思って切ることがある。近づきたい。でもその場に立とうとはしない。現実から逃げて、「消えてしまいたい」の方が正解に近い言葉なのかもしれない。まだ、いまのところ。最近、生死については思うことがあるので、また別の記事でだらだらと書くと思う。
最初は、非日常を求めて、腕を切った。
その後は、仲間になりたくて、切った。
仲間でいなくてよくなって、寂しくて切った。
それからは、不安になると切るようになっていた。
切ると安心が得られた。
適応機制、一時的なものだってわかってるけど、もうやめられなかった。
手段がそれしかないと思っていた。
依存。
先週、初めて、切るためだけの刃物を購入してしまった。
今までは、工作で使っていた彫刻刀や文房具として使っていたカッターで切ってたけど、
大きいカッターの替刃だけ、「きりやすそうだな」って思って買っちゃった。
おうち帰ってきてから、少し、怖くなった。
でも切るのはやめられなくて、それ使って切ってる。
ちょっと切っただけで、刃が深くはいって、血がたくさん出る。
安心するし、死に向ける決心も固まっていくけれど、ちょっとこわい。
こわいから、薬をたくさん飲んでしまう。
はやくどうでもよくなろう、眠ってしまおう。
お酒と複数の精神薬や眠剤を一度に飲んでしまう。
ODというほどの量ではないけれど。
自分で何してるのかわからない。
なにがしたいのかわからない。
さみしい。
ぼく、さみしいの。