この国の危うさ
・南京大虐殺の教科書記述が後退していること。
・戦争の反省を十分しないこと。あの戦争を美化する動きを規制しないこと。
・昭和天皇の戦争責任を棚上げにしていること。小澤代表を調べる前に昭和天皇の戦争責任について、東京地検は調べたらどうか?(聖域がないというのであれば!)
・日の丸・君が代を教育現場で強制していること。
・国防費に多額の予算を計上し、自衛隊を強化していること。海外にも積極的に自衛隊を派遣していること。ロケット開発にも熱心だ。今度は自衛隊員が宇宙飛行士になると言う。何か裏で動いているものはないか?
・クリーンエネルギーとして原子力発電を勧めていること。テレビでよく宣伝している。CO2を出さないとかで!核廃棄物はどうするんだ?自然に優しい風力とかではなく何で原爆が2つも落ちて核アレルギーになっている日本が原発の技術は世界最高レベルなのか?
「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月
5月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それに伴って、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようななった。
胡という男は、津浦線の沿線の40キロ以内の地域はほとんど破壊され、彼の家も破壊されて家族はみな離散してしまったと語り、若い妻と子どもがどこにいるかもわからず、心配でならないと嘆いていた。
杜という使用人は、徐州の北西45キロにある実家を破壊され、義母は日本兵に首を斬りおとされて殺害され、妻と子どもと実母はどこかに逃げているはずだ、と何度も泣きながら悲劇を語った。
また、この頃になると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになった。これらの家族には新たな悲劇が待ち受けていた。
常婆さんは、娘とともにヴォートリンを訪れ、こう語った。彼女の53歳の息子は何年も結核を患っていて、妻も子どももいる。常婆さんのもう1人の33歳の息子が精米所で働き、月50元の賃金を得ていた。彼にも妻と4人の子どもがいる。9人の常家族がこの33歳の息子1人の稼ぎに頼って生活していた。この息子だけが仕事のために南京に残り、他の8人は長江北へ避難して数ヶ月を過ごした。持参したものをすべて使い尽くして南京に戻ってきたら、この息子が日本兵に殺害されていたのである。一家の生活を支えていた息子が殺害されてしまい、常家族の8人は、明日の糊口をしのぐのにも窮しているというのである。
70歳の老人が9歳の孫を連れて、ヴォートリンを訪れ、こう語った。彼には30歳の盲目の嫁と3人の孫がいる。この老人の33歳の息子は、洋服屋で働いて月16元を稼いで5人の家族を養っていたが、12月13日に拉致され、消息不明のままであるというのである。
下旬のある日、以前金陵女学院の難民収容所にいた婦人が、6歳の子どもを連れて、援助を求めてきた。その子どもは重い病気にかかっているのだが、病院に連れて行く金が無いのである。彼女には6人の子どもがいるが、夫は前年の12月に日本軍に連行されたままだった。「彼女はもしも夫が戻らなければ、どうして生活していったらいいのかわからないでいる。しかも夫は戻ることはないのだ」とヴォートリンは日記に記している。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
仲兆貴(男、73歳)と劉順和(男、57歳)の証言(1994年収録)
日本軍が南京を占領した時、私たち2人の家はニ道挭子で、漢中門のすぐ近くでした。1937年の12月15日の午後、日本軍が漢中門外で、2000人ぐらいをいくつかの集団に分けて機関銃で虐殺し、掃射してから又ガソリンで焼き殺しました。撃ち殺されなかった者は、銃殺され銃剣で突っつき殺されました。これは私たちが見たことなんです。(徐歩鰲と劉亜儀が記録)
徐歩鰲(男、66歳)の証言
中国侵略日本軍が南京を占領した後、私は漢中門のすぐ近く、ニ道挭子の囲いの中に住んでいました。12月15日の午後、日本兵が漢中門外で中国人を機関銃で虐殺したのですが、暗くなるまでずうっとで、みんなで何千人も殺しました。後で又ガソリンをかけて、火をつけて焼いたり、死んでないのは又銃で撃ち殺したりしたのです。
その他にも、ある日(詳しくは覚えていませんが)の晩、日本軍が捕まえてきた中国人を車で金華醤油廠まで引っ張ってきて、大きな保温用の「醤油池」の中で50人余りを殺し、中に漬け込んだのでした。ずうっとたってから、大きな鈎(かぎ)で醤油池から引き上げて、工場の中(今の木材工場の宿舎のところ)に埋めたのです。(劉亜儀が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。