「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
世界に知られていた南京事件
当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰り広げ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃したものがいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類も厳しく検閲され、帰還した兵士に対しても厳格な箝口令(かんこうれい)がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼には一切触れることがないようにしていた。
しかし、本書で『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・デイリー・ニュース』の南京事件報道を紹介してきたように、アメリカやイギリス、ドイツなど世界においては発生当時から事件は報道されていた。当時南京から事件を世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に、南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した外国人だった。第一のグループは外国人ジャーナリストで、ダーディンとスティールのほかに、L.C.スミス(ロイター通信社)とC.Y.マグダニエル(AP)の4人の記者がいた(ただし、彼らが南京で取材していたのは12月15日まで)。第二のグループは南京の大使館員グループで、中でもアメリカ大使館とドイツ大使館の外交官は本国と関係機関に多くの報告を送っている(ただし、彼らは日本軍の南京城攻撃直前に南京を離れ、38年1月上旬になって南京に帰任)。第三のグループが、南京難民区国際委員会のメンバーたちで、彼らは国際世論に訴えて、外国からそのような蛮行を阻止させる行動が起こることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に向けて、残虐行為に関する情報をさまざまなルートを使って送り出していた。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)
唐広普(男、68歳)の証言
私の実家は江蘇省阜寧県の施庄公社二級唐大隊でした。15歳で南京に来て、中央陸軍軍官学校の第10期予備班で任務に就きました。一年余りして、中央陸軍軍官学校教導総隊の二団三営に加わり、兵営で雑務兵をしました。
南京防衛戦の時、教導総隊の任務は「南京と生死を共にする」ことでした。1937年の12月、国民党守備軍は全線散りじりになりましたが、私たちは南京のどの城門も砂袋を詰め、城門の外側の道には塹壕を掘って、守ろうとしました。12月13日に、日本兵が中華門から南京に侵入したので、私は下関に駆けつけましたが、長江を渡る船が無く、燕子磯まで駆けつけました。燕子磯は街が人でいっぱいで、木の板や桶やらたらいやらを抱えて先を争い長江を泳いで渡ろうとしていました。私は肉屋の仕事机を1つ担いで、八卦洲まで渡ろうと思いました。ところが肉机は円かったので、浮いたり沈んだりするばかりで、どうにも泳いで渡れませんでした。やむを得ず、又街にとって返し、小さい棚を2つ探してきて、肉机をひっくり返し、4本の脚を上に向け、2つの棚をその脚にくくり付けて、、肉机が穏やかに浮くようにし、それから軍で使うシャベルで水をかくことにしました。ところが北風が強く吹いていて、右をかいたら左に曲がり、左をかいては右に回ったりで、同じところでぐるぐる回るばかり、一向に北へ進みません。「俺は江北で生まれたのに、いまや江南で死ぬんか」と私はため息をつきましたが、長江を渡れずに、またもや燕子磯に引き返すしかなく、そのときはもう疲れきってしまい、どこか見つけて眠ってしまいました。夜がまだ明けないうちに、日本兵が来て、若い者をみんな街の真ん中へ追いやりました。中国語の話せる日本人が「誰か幕府山の前を道案内できるものはないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じ込めました。そこに収監されたおよそ2万人は、ほとんどが捕虜となった兵士たちで、一部が警官と一般庶民でした。3日3晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子どもが飢え渇いてあいついで死にました。婦女子はすべて輪姦されました。四川の兵が1人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、1000人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました。12月18日に、日本人が朝の4時から人々を縛り始めたのですが、何枚もの大きな布を裂いて裂いてたくさんのひもにし、まず1人ずつ後ろ手に縛り、それから2人の腕を1つに縛るのでした。朝の4時から午後の4時までずっとしばり続けました。それからやはりあの中国語の話せる日本人が話をし、誰か老虎山の道案内ができるものはいないかと聞いてから、私たちを南京の町に送り返して「ミーシミーシ」(メシだメシだ 飯食わしてやる)と言っていました。上元門の大きなくぼ地の浅瀬まで行って、私たちを一列に座らせました。その時、まずい、虐殺しようというんだ、と言う者がいて、「鬼になるならばらばら鬼に成ってやろう」と、互いに縄を解いたのです。夜の8時か9時に、日本兵が虐殺を始め、機関銃が鳴り響くや、すぐに私たちは地に倒れ横たわりました。20分後に、機関銃がとまり、私は右肩を撃たれて感覚がありませんでしたが、死体が私の体の上にかぶさってきていて、とても重く感じました。5分ほどして、機関銃が又掃射を始めましたが、しばらくしたら、日本軍が乗っかってきて、銃剣で刺したり、木の棒で打ったりし、それからわらを石榴の樹の上に撒き、ガソリンをかけて燃やし始めました。その時私は堪えられなくなり、うんと頑張って、死人のうずたかくなったところから這い出し、、長江の岸辺に沿って、燕子磯の方へかけて行き、家が焼かれて住む人のいなくなったある村で、臼で挽かれた糠の山にもぐりこんで隠れ、着ていた物を一つ一つ脱いで火に乾かし、稲を生のままかじって飢えをしのぎました。ここで私はおじいさんが一人子どもと一緒に小舟を漕いで村にやってきてわらを引きずっているのを見かけたので、彼らの頼んで、八卦洲まで連れて行ってもらい、それから江北まで帰りました。
江北で、私は幕府山から逃げ出してきたもう一人の生き残りに出会ったのですが、諸という人で、日本軍は銃殺した後、ガソリンで殺した者の死体を焼いてしまった、と言っていました。この人は焼かれて火傷しながら、火の中から逃げ出したのでした。諸さんは原籍が広東なのですが、後に、六合の竹鎮で新四軍に加わり、その後私との連絡はなくなりました。(段月萍と陳立志が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。
Imagine,
A world where
women create peace
戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。