「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
孫殿炎(男、58歳)の証言
1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。