南京大虐殺事件の発生当時外相であった、広田弘毅をテーマにしたに小説城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)がある。この本にはその南京占領時のときの日本の対応が以下のように書かれている。
・・・南京占領は、もう1つ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。
知らせを聞いた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議をし、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。
また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、悪いことをするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起こることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入城させることにし、軍紀の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守れなかった。
松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下の在る朝香宮(あさかのみや)と柳川平助中将の2人の軍司令官、さらに、その下の師団長たちに在る。
柳川はもともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべてみな敵」と、激しく戦意をかきたててきた将軍であった。また、師団長の中には、第16師団長の中島今朝吾(けさご)中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせて(たかぶらせて)いた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。
日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
と、軍紀の自粛を申し入れた。朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ10日と経たない中の出来事であった。
南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約20万の市民が外国人居住地区に避難。ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。残虐行為はこの地区の内外で起こり、これを日夜目撃していた外人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。
現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、2月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮司令官はじめ80名の幕僚が召還された(とくに懲戒措置とはことわらなかったが)。
朝香宮は、わざわざ外務省に広田を訪ね、堀内外務次官立会いの下で「いろいろ御迷惑をおかけしました」と、広田にわびた。
現地南京では、ようやく軍紀の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。さらに中国の奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上がる。それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。・・・・・・・・・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)
潘開明(男、67歳)の証言
私の家は旧は双井巷6号でした。父も母も早く死にました。
日本軍が南京に入ってくる前に、私は叔母と弟と3人で鼓楼二条巷の難民区に引き移りましたが、番号が何番だったのかは覚えていません。私はその頃の職業は昼間は床屋で、夜は人力車の車牽き(くるまひき)でした。
1937年12月に、日本軍が南京で人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、ありとあらゆる悪事をしました。日本軍が入ってきて2日目に、私の家に闖入してきて、二の句を継がせずに、私を捕まえ、華僑招待所まで引っ張っていって、そこに一日閉じ込めました。3日目の午後2時過ぎに、彼らは縄で私を縛り、300人余りの人と一緒に、下関の煤炭港まで連行しました。連行して行くとき、私たちが逃げ出すのを防止するために、私たちに通りの真ん中を歩かせ、日本軍が道の両側に、1メートル間隔で監視していました。凡そ4時になろうとする頃に、煤炭港に着いて、みんなを集め、機関銃で掃射しました。日本軍が掃射しているとき、私は目から火花が出るようでチカチカしていましたが、突然目が眩んでしまいました。しばらく、死体が私を地に押さえつけていて、晩の9時か10時頃になって、やっと気がつきました。月がとても明るかったのですが、私はまだ自分が活きているのかどうかわからないでいました。人間なんだろうかそれとも亡霊なんだろうかと、自分で自分に聞きました。日本兵が機関銃で掃射して、まだ生きていられるわけがあるだろうか、人間であるはずがない、と内心思いました。頭を上げて見ましたら、ほかにも座っているのが何人かいて、縄でしばられているのもいれば、しばられていないのもいました。「よう、助けてくれや。死んでないんだ。縄をといてくれよ」と、私は言いました。私たちは互いに縄を解き合った後、それぞれ東へ行ったり西へ向かったりで、ある者は長江を渡ろうと木のたらいを抱え、ある者は和記洋行へ駆けつけました。私はこの土地の者で、家にはまだ叔母と弟がいるので、逃げては行かれませんでした。私は線路に沿って、汽車が長江に差し掛かる所まで行き、岸辺で体についた血を洗い落とし、近くの人家まで行き破れた衣服をもらって着替えました。その頃はもう夜中で、どうにも歩くわけにはいかず、人の家の辺りにうずくまりました。夜が明けてから、駅の方向へ向かい、熱河路まで来たところで、日本兵4人に出くわし、何をしていたんだと聞かれました。私は「日本の先生たち」の荷物を引っ張ってきてあげて、その人たちが汽車の駅に入って行ったので、家に帰るのだと言いました。書き付けがあるかと又聞かれたので、無いと言いました。すると「クーリー(苦力=辛い役務を強いられた労働者)に使った」と紙に書いたのをくれました。その人たちについて行って挹江門を入ると、鉄道部まで来て、その人たちが入って行ったので、私は察哈尓路沿いに山を越えて逃げて行きました。道でお年寄りに出会ったので、その人に土下座し、物を乞うて食べました。今はどこにでも日本兵がいるから、行ってはいけない、日本兵に出くわしたら殺されるぞ、とそのお年寄りに言われました。夜まで隠れていて家に帰ったら、叔母は至る所私を探していたので、私はもうちょっとで命を落とすところだったんで、九死に一生を得たんだよ、と言ったのです。叔母と私は大泣きに泣いたのです。(蒋琳が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。