不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

南京大虐殺

2009-03-21 14:48:14 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について4
【概数の資料】
中国兵の犠牲者数については、日本と中国の資料から概数は推定できたが、きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である。総数を推定する参考になる当時の3つの資料を紹介する。
(1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同じ)
「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています。」(ラーベ『南京の真実』)。38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京城内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域で行われた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう。
(2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第Ⅲ編「遺体埋葬記録」に収録)
 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8,674体になる。これには戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。
(3)スマイスの「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」
 同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では4県半の県城をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出している。この調査は、38年3月段階でで自分の家に戻った家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時行われた唯一の被害調査であり、犠牲者は間違いなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。
 以上の犠牲者数についての資料状況と本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 葛仕坤(男、74歳)の証言
 私は葛仕坤といって、今年74歳ですが、日本兵が南京にやってくる前の晩に、私たち全家族で燕子磯の許家村から引っ越して長江の北へ行きました。けれども私はしょっちゅう燕子磯の許家村に戻って来ていました。1937年12月のある日と覚えていますが、許家村の月亮山で日本人が中央軍をしばりあげ、400人余りもいた中央軍を、日本人は強引に地にひざまずかせて、それから機関銃でみんな射殺したのを、この目で見ました。あの時は、烏龍山から許家村までの道はずっと死体が転がり、道行く人はみんな屍の上を踏みつけて行くのでした。私たちの村の村長の周明旭が人々に道沿いに壕を掘らせ、そこに死人を埋めました。旧の十○地で、日本人6,7人が葛という女の子を私たちの家に引きずってきて輪姦するのを、この目で見ました。(陶俊と李春明が記録)
 ※○は、日本の漢字にない字なので○にしました。

 
   

「Imagine9」【合同出版】より


 


想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid

of military bases and 

reclaims

the forests and the 

oceans.

 


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-20 09:24:27 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について3
【日本軍が虐殺した中国軍民の数】
日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった(藤田久一『戦争犯罪とは何か』、同『新版・国際人道法』参照)。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民および非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。
 ハーグ陸戦条約は「第23条[害敵手段、攻囲及び砲撃の禁止事項] ロ、敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること   ハ、兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること 二、助命せざることを宣言すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは、直接戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦(せんめつせん)を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。また、日本軍は、武器を捨て軍服を脱いで民間服に着替えて難民区や居住区に潜伏した中国兵を「便衣兵」として連行、処刑したが、南京には本来の「便衣隊」「便衣兵」は存在しなかった。
 「便衣兵」を処刑するにはそうと認定する軍事裁判の手続きが必要であったから、日本軍の「便衣兵狩り」による集団処刑は、交戦法規に違反した虐殺行為であったのである(吉田裕「15年戦争史研究と戦争責任問題」)。
 現在公刊されている日本軍側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい中国兵および中国兵と見なされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。(割愛させていただく)第9師団・第114師団・第6師団の各部隊の戦闘詳報や陣中日記の公開が特に遅れているが、もしも日本軍側の全連隊の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている)の総数がかなり明らかになることがわかるだろう。
 もっとも、戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向にあるから、この数字はあくまでも概数として扱うほかはない。それでも、( )をつけなかった虐殺者数は8万人以上になろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
 私は、総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(「南京防衛戦と中国軍」)。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺

 郭国強(男、68歳)の証言
 1936年に、私は18歳で「中央軍」に加わり、88師で軍務についていました。そのころ日本軍が上海を攻めていて、我が師団は上海で抵抗していました。負けてから、江蘇の句容へ行って又日本軍と一戦を交え、それからは壊滅して軍をなさなくなりました。
 1937年の12月に、私は2,3百人の「中央軍」と平服を着て、南京の燕子磯三台洞の近くまで逃げてきました。日本軍が燕子磯の長江沿いの浅瀬でやった大虐殺の情景を目撃しました。あの時日本軍は機銃掃射を一昼夜続け、2万人以上の既に武装解除していた「中央軍」の命を奪ったのです。私は三台洞に隠れていて、日本軍に発見されたのですが、山を切り崩している農民だと偽り、山を爆破する道具を持ち出してきて、やっとのことで死を免れたのでした。
 それから、私は隙を見て逃げ出し八卦洲の下○村まで落ち延びて、そこに住み着くようになったのです。(潘可栄と趙金華が記録)

   

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

武器を使わせない世界を。


Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.


憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-19 08:55:29 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について2
【南京攻略戦下の人口】
南京特務機関「南京市政概況」によれば、南京攻略戦の前後で南京市(本書で言う南京城区)の人口・戸数は以下のように変化している。


 1937年  3月末   101万9667人     20万810戸    (首都警察庁調べ)
   38年  2月末         20万   (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
   38年10月末         32万9488人      8万2195戸   (南京市自治委員会調べ)
   39年10月末    55万2228人     13万2,403戸   (南京特別市政府調べ)
   41年  3月末         61万9406人           14万0439戸    (南京市政府調べ)
 
 日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万人以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には50万近くになっていた(スマイス「南京地区における戦争被害」)。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている(中国抗日戦争史学会編『南京大』)。11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、一方では、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始された時に、南京城区にいた市民はおよそ40万~50万であったと推測される。
 南京特別市の近郊6県の県城と農村の人口は、スマイスらの「南京地区における戦争被害」に基づいて推測すれば、南京攻略戦以前は、150万を超えていたと思われる。県城や農村の住民は遠隔地へ脱出していく事例は少なく、南京攻略戦に際しても一時的に近距離周辺に避難するパターンが多かったから、概して人口の変化は大きくない。
 南京防衛戦に参加した中国軍の総数については、私はかつて詳細に検討したことがあり(「南京防衛戦と中国軍」)、戦闘兵が11万~13万、それに雑役を担当した少年兵、輜重兵(しちょうへい)などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員された軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦闘兵を加えて、総勢15万人いたと推定した(南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅巍・江蘇省社会科学院研究員の「南京保衛戦史」も、南京防衛戦に参加した中国軍の総勢を約15万としている)。

  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 楊勤州(男、61歳)の証言
 1937年の冬に、日本軍が来ました。1000人ほどの国民党の敗残兵が、白旗を掲げ、日本軍に私たち小江辺の大きな倉庫まで連行されました。日本軍はこの人たちを整列させてから、身体捜査をやり、2人刺し殺しました。価値の高い物をみんな取り上げ、身体捜査が終わってから、又8人銃殺しました。その時に又何人か日本軍がやってきて、その敗残兵たち全部を綿花堤まで駆り立て、機関銃を2台据え付けて、掃射をし、しまいには粗朶をたくさん積み上げ、それにガソリンをかけ、まだ撃ち殺されていない人を全部、火をつけて焼き殺しました。
 孫という全椒県の人がいて、年の暮れに街に出て塩を買ってきたのを、日本兵が捕まえて無理に塩を食べさせ、話せなくなるまでにしてしまいました。ずっとしてから年取った漢方医がゆっくり調えてやっとよくなりました。(羅自成が記録)

  

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars

with each other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-18 08:38:57 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について1
 南京事件において犠牲にされた中国軍民の数を正確に算定することは、今となっては、まず不可能である。日中の双方とも南京事件発生時および直後に本格的な被害調査をしなかったからだ。(金陵大学のスマイスらの「南京地区における戦争被害」調査が唯一であった)。南京はその後およそ7年間、日本の占領下に置かれたため、中国当局が直接調査することはできなかった。いっぽう、南京を占領統治した日本当局が、犠牲者数を調査することなどありえなかった。したがって、関連した諸資料を収集し、整理・検討して犠牲者総数を推定していくことになるが、その資料も、日本軍側の資料の公開が少ないことが最大の障害になっている。※

 ※藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊の中で、これまで戦闘詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ3分の1にすぎない。多くは敗戦前後に連合軍の追及を恐れて証拠湮滅(しょうこいんめつ)のため焼却されている。また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録した陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加えられることも日本側の資料が少ない原因になっている。


 犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要であって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は「まぼろし」であるということにはならない。犠牲者数の問題は、今後さらに資料が発掘されていけば、より実数に迫っていけることも事実である。ここでは、本書で引用してきた資料を整理・総合して推定できる概数を述べてみたい。それは概数であっても、相当程度南京事件の全貌をイメージできると思うからである。


 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 邢久発(男、72歳)の証言
 1937年の暮れに、日本兵が南京で大虐殺をやり、その蛮刀の下に数限りない人々が惨死しました。水西門から上新河まで、死者がうずたかく山をなし、河いっぱいに血が流れたのです。とりわけ江東門の橋が爆破されていたのを、日本軍が屍をうずたかく積んで、車が通るようにしたのです。

 何玉峰(男、59歳)の証言
 南京が陥落したとき、私は郊外の沙洲圩に避難していました。長さ5,6キロにも及ぶ水西門から上新河までの道に、日本軍に殺害された人々が、まさに死屍累々として野に遍しの状態だったのを、目撃しました。紅卍字会の埋葬作業で、この道には、2,30メートル置きくらいに1つずつ、屍が丘のようにうずたかくなったのを、覚えています。
 江東門の江東橋が爆破されていて、日本軍が死体で河を埋め、上に戸板や葦ずなどを敷いて、臨時の橋にしました。人がその橋の上を歩くと、そこが上下に浮き沈みして、まったく見るに耐えないむごたらしさでした。(習守清と呉建野が記録)

 
 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-17 14:36:59 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
【財産権の侵害】
日本軍は南京において戦闘行為とは直接関係のない略奪・放火を長期にわたって行った。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物の73パーセントが略奪の被害を受けた。中心的なビジネス街では、多数の兵隊による何度かの略奪を受けたのち、ついで軍用トラックを使用した本格的な略奪を受け、最後には放火されて焼失したところが多かった。
 放火は日本軍の南京入城後に始まって2月はじめまで行われ、市全体で建物の24パーセントが焼失した。そして、焼け残った家の家具や衣料、現金などがはぎ取られ、日本軍に略奪された。
 南京近郊の農村では広い地域にわたって、40パーセントの農家が焼かれ、家畜や農具、貯蔵穀物、作物が甚大な被害を受けた。畑の小麦は軍馬の飼料にされ、野菜は兵隊が好んでかっぱらっていった。とくに、江寧県と句容県では野菜畑の作物のほぼ半分が損害を受けている。
徴発・調達の名目で食糧・穀物・家畜が大量に略奪された(「南京地区における戦争被害」。なお笠原『アジアの中の日本軍』も参照のこと)。
 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 陳徳星(男、72歳)の証言
 日本兵が南京に来たのは1937年の冬月で、私が用事で江東門を通ったら、日本兵が模範監獄の前で、テーブルやベッドの板や大きな戸板などいろんな木材をあるくぼ地に積み上げ、それにガソリンをかけて火をつけ、それから日本兵2人が中国人1人の両腕を抱え、後ろから日本兵1人が銃剣で中国人の背中を突っつき突っつきして、その中国人を炎の中へと追い込んでいるのを、見かけたのですが、次々に上がるけたたましい叫び声が耳に響くばかりで、全く見るに耐えないむごたらしさでした。文字通りその人たちの頭がこげ額がただれ、血なまぐささが天に突き上がるのでした。

 李桂英(女、59歳)の証言
 1937年には、私の家は江東門でした。1937年12月13日に日本の侵略軍が南京を占領して、大虐殺をやった時、私は12歳でした。日本軍はいつも三々五々群をなして外出していて、馬に乗っての時もあり、歩いての時もありました。一度、男の人が1人難民区から出てきたのを、日本兵がぐっととっつかまえて、まずその頭を見、次いでその手と肩とを見、それから気ままに一発撃ちました。その人はそのときは死なずに、倒れて何度かけいれんしていましたが、やがて日本兵がまた一発撃って、やっと撃ち殺しました。
 江東門の橋が爆破されていて、日本軍が橋を渡れなかったことから、つかまえてきた何百人もの庶民を銃で撃ち殺し、その死体を河に敷き詰め積み上げ、庶民の家の戸板などはずしてきたのを屍の上に張り渡しました日本兵がその上を歩き、屍から血が流れ出して、河全体が真っ赤に染まったのでした。(賀家宝が記録)

 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。

 

Imagine,


A world that spends 

money


not on armies,


but on people's lives.

アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-16 10:08:38 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 残虐行為、不法行為の内容は、次の二つに大きく分けることができる。
【生命・身体の侵害】
戦時国際法に違反して中国の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵が集団あるいは個別に殺戮された。日本軍の包囲殲滅戦の犠牲となって住民が殺害され、「残敵掃蕩戦」「敗残兵狩り」によって元兵士と思われただけで多くの成年男子が殺害され、日本兵の気まぐれでも多くの市民が射殺・刺殺された。金陵大学のスマイスやベイツら南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会が改称)の調査によれば、日本軍の掃蕩作戦中に殺害されたのは老人が多かった。南京城内の南部の人口密集区では、多くの老人が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では60歳以上の男性の28パーセントと女性の39パーセントが殺された割合になる。近郊の農村では、殺害された女性の83パーセントがが45歳以上の婦人で、そのうちの約半分が60歳以上の老婦人だった。彼女らは、従来は残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家・財産を守るために残っていて、殺害された。
 さらに同調査によれば、民間人の死傷者の割合は男子が64パーセントを占め、年齢にして30歳から44歳の民間人の死傷者のうち男子が76パーセントと高い割合を占めた。言うまでも無く、「敗残兵狩り」によって元兵士の疑いをかけられて殺害されたのだった。家族の被害の割合で言えば、南京城内では残留した家族の7分の1が夫や父親を失った。(「南京地区における戦争被害」)。
 南京事件の中で際立って多かったのが婦女の強姦・輪姦および殺害だった。日本軍の南京占領後12月16日から強姦事件が多発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では1日に千人もの女性が強姦され、占領初期には控えめに見ても8000人の女性が強姦され、翌年の2,3月まで何万という女性が強姦された(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」『アメリカ関係資料編』)。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷を与え、みずから命を絶った者、精神に異常をきたした者など、さらには悪性の性病をうつされて廃人同様になった者、妊娠させられたため無理な堕胎をこころみて身体を壊してしまった者など、あとあとまで残酷な悲劇は続いた。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 邱栄貴(男、70歳)の証言
 1937年の冬月に、江東門の統○茶房の王明九のお母さんが死んで、お棺に入れられて門のところに置き、未だ埋めに行かないでいたら、日本兵が手榴弾一発でお棺と死体とを粉々に砕いてくれました。冬月12日、日本兵が王さんの家に住まおうとしながら、門口の死体のにおいが嫌で、私と王明九とにせっついて死体を引きずって行かせようとしたのに、死体がお棺に入っていて、2人では動かなかったので、日本軍がやってきて銃剣で私のお尻を一突きしましたが、幸いに着ていたのが綿入れだったので、死を免れたのでした。
 冬月13日に、江東大隊積余村の王明才が日本軍の来るのを見て、肥えた豚を2匹隠したのですが、まもなく日本軍に見つかって、王明才は日本軍に銃殺され、豚も撃ち殺されました。そして、私と和尚さん1人とが日本軍に豚の皮を剥ぐようせっつかれ、和尚さんは袖口が大きくて、働くのに不便なので、袖をまくりあげていたときに、日本軍がこいつは手伝おうとしないだと言い張って、一撃の下に和尚さんを地に打ち倒し、和尚さんが這い上がろうとしたところを、またもや日本軍に踏みつけられため池に蹴りこまれて、溺れ死んでしまいました。それから私1人で豚の皮を剥いでしまうと、日本軍はついてくるようにと私に命じ、江東門の軍法処の門まで来たところで、豚を門のところの広場に置かせたのですが、その時に私は1000人以上の難民が監獄からしばられて連れ出され、江東橋の端から鳳凰街までずっと並ばされているのを見ました。何歩か毎に日本兵が1人ずつ、刀や銃を手にしていて、将校が一声大きく叫ぶや否や、銃剣でそれらの無辜の中国難民を滅多突きに突きまくり、1000名を超す中国人が血の海の中に倒れたのです。やがてこの人たちはみんな江東門の河の中に引きずり入れられ屍で積み上げた「橋」にされました。それと一部は軍法処のそばの茅の坑道に引きずって行かれました。
 冬月17日、18日ころに、積余村の王華明と王月徳の家にいた110名の中国人難民が、みんな縛られたまま、日本軍に撃ち殺され、その死体が家の裏の大きな茅の坑にうずたかくなりました。その日に、私も日本軍に捕まりましたが、少しして逃げ出し、積余村の河辺に広げられていた芦の粗朶に隠れたので、捕まりませんでした。夜になって出てきたとき、その110名の難民はみんな死んでいました。
 冬月20日に、日本軍が私と王進才を捕まえて舟を漕がせましたが、突然1人の若い女の人を見つけて、日本軍が2人跳びかかって行き、その女の人を身も世もないほどに踏みつけにしました。
(滕桂珍、滕桂芝、鐘金華、朱春香が整理)

 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。

 

Imagine,

A peaceful world 

without war.

 


でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのか


一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-15 19:37:49 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
 南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫殿炎(男、58歳)の証言
 1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。

 
「Imagine9」【合同出版】より


MESSAGE(メッセージ)

環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)

 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-14 10:35:22 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
(昨日の続き)松井はこれに不満で「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日)に記し、さらに「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」とまで書いている(「松井石根大将陣中日記」)。
 2月14日、大本営は中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、あらたに中支那派遣軍(司令官畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、16日司令部の決別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営および政府と予の意見に相違ありて、ついに予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」のである。(同前)松井石根の野心、功名心にとっても、南京攻略戦の結果は、挫折だった。
 日本に帰還した松井が、「駅頭市民の歓呼は軍部の取扱に比し、すこぶる熱狂、感謝的なるを認む」と日記(2月25日)に記しているように、マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法虐殺事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してはその事実を隠蔽し続けたのである。
 中支那方面軍の戦闘序列が解かれたことによって、作戦としての南京攻略戦は終結したが、その後も強姦を中心とする日本軍の残虐行為は続いた。それでも3月28日に、中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府が南京に成立してからは、治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のある者はほとんど自宅に戻った。ここにおいて、南京事件は一応終焉したと言うことができる。
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 朱応泰(男、65歳)の証言
 日本兵が南京を占領した時人を見れば殺すので、私は母と一緒に弟を連れて雷公廟の囲いの中に逃げて隠れました。日本軍はしょっちゅう雷公廟一帯にやってきて焼き、殺し、略奪し、婦女を強姦しました。人力車をひいていた労働者が1人日本軍に撃ち殺されるのを、私はこの目で見ました。父親を捜すので、恐る恐る涵洞口へ戻ったら、涵洞口の両側の家が全部焼き払われて跡形も無くなっていて、漢中門の河辺まで行ったら、日本兵に殺害された死体がうずたかくなっているのを見かけました。石城街や鳳凰街一帯は、道端という道端いたるところ死体だらけで数え切れませんでした。回り道をして江東門一帯の方に行ったら、道の両側に死体がうずたかくいくつもの小山なっているのが見えるだけで、江東橋は爆破された後、日本兵が屍を敷き詰め橋にして歩いているのでした。三伏荘でも、日本兵3人が中国人を4人捕まえ、雑多なお墓のそばまで引きずって行って銃で撃ち殺したのを、この目で見ました。(欧文華と張連英と夏龍生が記録)

 李世梅(女、70歳)の証言
 元の二道挭子醤園廠(今の南糧船廠)が、中国侵略日本軍が人を殺した場所で、殺害された中国同胞の数は数え切れず、屍がいっぱい醤油池にほうり込まれていたのです。張大言の父親や薛世洪の父親など10数人が二道挭子で捕まり、最南端のくぼ地の土手の中(今の市自動車12隊)まで連行されて、銃殺になったのですが、そこが「万人坑」なのです。日本軍は活きている人を射撃の的にして、憂さ晴らしにもしたのですが、孔造順(今は下河街に住んでいる)の父親が、あぜ道も上で日本軍に活きたままぶち殺されたのです。(左国家が記録)

 


 「Imagine9」【合同出版】より


はじめに

戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。

 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-13 13:46:44 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
 1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
 南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
 こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
 

 支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)

 こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 陳永富(男、69歳)の証言
 1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
 それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
 日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバをころすのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)

 

 「Imagine9」【合同出版】より


考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。


日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。

 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ブログランキング 政治・社会問題

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺

2009-03-12 10:04:31 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
 陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
 南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
 しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
 ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
 この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

劉修栄(男、63歳)の証言
 1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
 冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
 日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
 暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より


考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。


「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。

 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

ブログランキング 政治・社会問題
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする