連日のコロナウィルスの報道と現実に疲弊してしまっている皆様いかがお過ごしですか。
さてそんな中私がふと思ったことを書きます。
朝起きがけにふとこんなことが頭と胸に浮かびました。
「いただいたこのいのち」大切にいたします。
何か夢でも見ていたんでしょうか?
映画でも小説でも当たり前のこのセリフ。みなさんもどこで聞いたか覚えていないかもしれませんが聞いたことはあるような。
この「いただいたこのいのち」のフレーズに一度は納得をして多分夢の中の自分はうなづいたはずです。
しかし急に?と頭の中によぎります。
「いただいたこのいのち」 ?
?
何でしょうか? この違和感。
しばらくすると
「お預かりした私のいのち」
というフレーズが出てきて私もびっくりしました。
そうかよく「自分の体は借り物」なんてよくスピ系の人が言うもんな!と自分でも納得していたんですが
「お預かりしたいのち」と言うフレーズは聞いたことないな。キリスト教では言うのかね?全知全能の神、からいただいたとか。
などと思いつつさらにうとうとしています。と急に
「お浄土に還る」と言うフレーズが出てきました。
これは以前有名な布教師さんの法話を聞きに行った時に聞いたセリフ。
その時私は「お浄土に還る」に違和感がありました。
だって「お浄土に還る」なんて、お釈迦様言ってないし(たぶん)、生まれたのは縁だし、お浄土から生まれたわけじゃないし、と思ったわけです。
でもそんなことを思いながら
アミターバ、アミターユスのことが頭をよぎりました。
アミターバアミターユスは
アミターバ「無量の光」アミターユス「無量の寿(いのち)」のこと。
無量と言う計り知れないところから私たちは来ているわけですね。
これは「命の授業」でやりますが「命の授業」とは、A4野上を縦長にして、まず自分の名前を神の一番下の真ん中に横書きで書きます。その時自分のイニシャルがいいです。自分の名前の上に父母と書きます。名前を書いてもいいのですが、イニシャルもしくは父はP母はMと書きます。これは父はパパの略でP、母はママの略でMのことです。両親の上にさらにその両親をそれぞれ書いていきます。気がついたと思うのですが名前で書いていったら、すぐいっぱいになっちゃうんですね。でもイニシャルでもそんなには書けません。そうこうして書いた家系図。この紙の上に表れたご先祖様の人数を数える、繋がる命を感じる授業です。この授業の効果は絶大で、繋がる命が「つながるいのち」変換され、子供達の心と体に中に浸透して芯の底からわかるのです。
ここで「つながるいのち」
と言うフレーズが出て来ました。「つながるいのち」が私の中で「お預かりしたいのち」に変換されたのです。
誰からお預かりしたのかわからないです。ただ「永遠の過去」からお預かりした。
「永遠の過去」=「お浄土」
「永遠の過去」から来たアミターバアミターユスからお預かりしたいのち
そう考えるとわたしのいのちは「いただいた」ものではなく確実に
「お預かりした」命に転換されました、わたしの中で。
そして「お預かりしたいのち」は、この世の縁が尽きた時「お浄土に還る」のだな、とふと合点がいきました。
以前お話ししていた布教師さんは、この話を省略してお話しされていたのですね。その時のわたしにはわかりませんでした。強烈な違和感だけが記憶に残っていました。
宗祖親鸞聖人も「聞」が重要と言われます。
いろんな「聞」をし、その時感じた違和感が、わたしの命を育てるのだなあとしみじみ感じた朝でした。
ここで宗祖親鸞聖人も・・・と言われますと書きましたが、宗祖親鸞聖人が言われていることはお釈迦様も言われていると言うことです。
さて永遠の過去からお預かりしたいのちをハナから確実なものとして届けているから、早く気付けと阿弥陀さんは呼びかけておられる。
そうなると完全確実な形でいのちは届けられているわけです。
阿弥陀さんの名前を呼ぶことすら必要ではないような気もしますが
なぜ我が名を称えよ。
と仰ったのか?
早く次の夢が待たれることです。
#神社仏閣
ご本意の願
十八願はそのまま救う。信ぜさせ、行ぜさせ(称えさせ)て救う。
十九願は色々な修行をした人を救う。
二十願はお称名(しょうみょう)を称(とな)えた者を救うとある。
さてこれをどうするか、法然上人のお弟子の間で、これをどう頂いたらいいのかと問題になった。阿弥陀さまのご本心は何だ。
そりゃ十八願だよ。そりゃわかる。
皆さんねえ、本願というものをどのような意味でお考えですか、根本の願ということでお考えですね。
それで結構ですが、もっとわかりやすいのはね、ご本意の願、親さまのご本心の願という方がわかりやすい。
なら何で阿弥陀さまは十九、二十願をお誓いになったのか。
修行をした者を救うとか、お称名をまごころ込めて称えた者を救うという、往生の因法をなぜ用意なさるのかと、法然上人の門下で理解が違いました。
宗祖(親鸞聖人)のお示しはどうかというと、この第十八願で結構だけれども、こりゃあ仲々わからんのがおる。わからん者に「どうせ愚かやから、どうせお前の心も智恵も駄目だから」と言えば、「ああ、さようでございますか」と聞けばいいのに、「何かやらにゃ。できん事はないですよ」と我を張る者がおって、もしこの十八願だけなら「こんな仏さまはつまらん」と逃げ出してしまう者がおるかもしれん。そうするとこの慈悲は全うすることができない。そんなら逃げて行くのを止(とど)めねばならん。
「お前がそれほどそのまま救うという私の意(こころ)がわからんで、『修行をする者を救うというのならわかる』というのなら、修行をする者も救うから修行をしてくれや、私は救う」と引き止めるために十九願を添えられた。
しかし「修行はできませんが、なんぼなんでもそのまま救うということがあるものか、何かしなければ、まごころ込めてお念仏くらい称えなきゃあ」という。
それも止めておかねばならんと二十願を添えられた。
それがご開山様(親鸞聖人)のお領解なんです。
ですからもし、「修行して救われる」という理屈がピッタリくると騒ぐ人間は、阿弥陀さまのご本心でない道を行っておるとしなければならん。
これを非本願という。ご本意にあらず。
よく私は言われますよ。
「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」とお話しますとね。
「バカじゃなかろうか」と言う人がおるんですよ。
私は冗談で言ってるんじゃあないですよ。
説教というものは一生懸命聞くものじゃないですよ。眠っておってもいいですよ。
一生懸命聞くから間違う。
一生懸命にはなれんのが我々。
ちょっとなったような顔をしてもつまらん。
それを親さまがお見込みです。
凡夫はつまらんってね。
そりゃやっぱりまごころ込めた方がよさそうに見えますよ。
一生懸命になってやってる人がよくおりますよ。「真剣な求道」といいます。
お坊さんにもおるですよ、昔から。その人達はどこが間違うておるか、「俺の真剣が役に立つ」というところが間違うちょる。
だから彼らは遠慮会釈なく「我等真剣な求道者集団」と言いますよ。
だいたい歎異鈔を大事にするのが真剣な求道になります。格好がいいですよ「真剣な求道でなければなりません」と言うと。
お坊さんでいえば名僧、お同行でいえばちょっと姿がいいです。
しかし間違いです。これからも、生まれる以前も真剣になったことなどないんです。真剣になったとしたらどうなったか、
「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり」
(親鸞聖人『正像末和讚』)
真剣な求道をやったけれども私の自力では駄目であったから、また迷ってきました。
真剣な求道はいけません。
ご開山様も真剣な求道とは、ご自分からは言われない。我々からみれば真実にご法義を求めたお方だというかも知れません。しかしそれもあまり言わない方がいい。
「このうえの称名はご恩報謝」。真剣な求道をやってると、ご恩報謝の人格にならない。
阿弥陀さまは片道の人格を期待なさってある。
また仏辺から言うと、如来さまは、ご恩報謝の人間を求めておいでになる。
おたすけではありませんよ。おたすけは「できそこないをそのまま救う」である。だが、そのうえから、この世の滞在の間、「ありがとう」と言える人間を求めておいでになる。
ところが真剣な求道やってるとそうはなりませんよ、きっと言います。「私は七十年、真剣にご法義を聞いてきた」とすぐ言いますよ。
いらん事は言いなさんな。向こうさまは兆載永劫(ちょうさいようごう)だよ。
わが身の側を重大視すると、自分のしたことを言わにゃあおられん。
あなた方もそうでしょ、家を建て替えた人がこの中にもおるかもしれんが言わんほうがいいですよ。(笑い)
「私の代に建て替えた」といっても、建て替えた木は じいさんが中刈りしとったから出来たんじゃあないか。
「私の時は生活改善で台所をやり変えた」と言うが、昔のじいちゃん家ごと建て替えたんだぞ。
自分のした事が大きく見えてきます。
百のうち五つしますと、段々それが十になり二十になり、三十になり五十になり、八十まで俺の自慢がはじまる。
だから求道はいけません。
さてそのようにして十八願、十九願、二十願を理解しとかねばなりません。
「そのまま救う」のご本願。
十九、二十願はわからん者のために用意をなさったのです。
柿羊羹の中身は皆柿羊羹
(深川倫雄和上)
私の子供が、「お父ちゃんバカでよ」というんですよ。
「なしてや」
「お父ちゃん、お説教の時『柿羊羹の中身は皆柿羊羹』ちゅうよね」
「おお、言うよ」
「あたりまえじゃないか」
「あたりまえじゃから、いいじゃあないか」
「そんなら柿羊羹でなくてもいいじゃあないか」
「何ならいい」
「蒲鉾でもいいじゃないか。蒲鉾の中身は皆、蒲鉾ちゅうて説教しても同じじゃあないか」
「違いますよ。蒲鉾買ったら 板がついてきますよ」
柿羊羹の中身は皆、柿羊羹。
阿弥陀さまの中身は皆、私。
阿弥陀さまの一部が私で、他は何かというのではない。
五劫兆載永劫(ごこうちょうさいようごう)のご苦労も、「四十八願の一々の願に言(のた)わく、若我成仏十方衆生」(善導大師『観経疏』)、阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯です。
法話1 (深川倫雄和上)
阿弥陀さま、阿弥陀さま
近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。
親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。
親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。
もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。
阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。
これが私どもの信仰なのです。
「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。
大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。
親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。
勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではありませんよ。
何故、親鸞・親鸞と言うのかといえば、結局阿弥陀さまを持たない。極楽を持たない。
そして人間であり凡夫でありましたところの親鸞聖人のことならわかりますから、だから人間親鸞を大事にする。
人間親鸞を大事にするのなら、乃木大将や東郷元帥を大事にするのと全く変わりません。あるいは「あそこの先生は立派な人だ」というのと同じです。
私どもにはいろいろな趣味があります。説教中に眠るのを趣味にしておるのもおる。
絵を画く趣味、盆栽の趣味、剣道、柔道、水泳、奇妙きてれつな趣味もある。
巾着(きんちゃく)掏摸(する)のが趣味の人もある。
株をやるのが趣味の人もある。
株ってそう儲かるものじゃないけど、毎日電話とラジオを聞いて売買をして、そう儲かるものではないが楽しい。緊張してますからね。
ところが一つもないという人もあるかも知らんが、どなたにも共通した趣味が、人間の評判であります。
面白いですよ。趣味にはまあ、書道ならそれぞれ流儀があってグループを作りまして、そして景気づけや激励のために品評会がある。
そしてあれがええ、これがええとやる。
人間の品評会がある。これだけは、どなたもするところの趣味であります。
- 「あの人は若いのに禿ちょるのお」
- 「ありゃ、おやじが禿ちょったから」
- 「ありゃ、禿ちゃあおらんが三十代で真っ白や」
- 「ありゃ、ばあちゃんがそうじゃった」
それくらいならまあええが、
- 「あそこのばあさんは、たいがいにゃ根性が悪い」などと、すぐ品評会がはじまる。
その一類として親鸞聖人という、人間親鸞の品評会をするならば少しも信仰ではない。
信仰というのは、阿弥陀さまを信じ、極楽を信じ、眼をつむったら西方のお浄土へ参るというのです。
だから私どもは阿弥陀さまを持たねばなりません。極楽がなければなりません。
「あるような気がせん」
お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて待っていて下さるちゅうたら、「はあ、そうでございますか」と聞いておけばいいんです。
ここまで
私は「はあ、そうですか。」と行かないのである、とほほ