今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

いつでも心に留めておかなければならない話(1)

2020-02-23 10:02:30 | 真宗と他力

いつでも心に留めておかなければならない話(1)

初心に戻って 自分の法話を点検しています。


「浄土」は「また出会える世界」??  

渡邊了生(東京仏教学院講師) [2015年1月1日号(第118号)]

 

 

「また出会える世界」という言葉を、よく耳にします。それこそが親鸞聖人の「浄土」観の第一義であるかのように。
確かに「愛別離苦」(愛し合う者が離ればなれにならなければならない苦悩)の悲しみを抱える人達にとって「また出会える世界」は、その苦しみを癒すための未来の理想郷ともいえましょう。
けれども親鸞聖人は、そのような私達の現実の苦悩や欲求を都合よく満足させていく世界こそが「浄土」であると説示されたのでしょうか?

ある事故で婚約者を亡くされた方が、あまりの現実の苦悩・悲しみにさいなまれ、その後「あなたに会いたい、会うには私が行くしかない」という遺書を残し「また出会える世界」に旅立たれました。
その方の辛かったであろう「愛別離苦」の現実、そして、その解決を来世での再会に求めようとした遺書の文言を目の当たりにした時、私は「また出会える世界」こそが親鸞聖人の浄土観であると主張する声に「戸惑い」と「虚しさ」を感じました。
はたして「また出会える世界」を来世に願求すること、それのみが念仏者の「真実の証」という目的であり御信心の喜び・法味なのでしょうか?

もし仮に来世の「出会える世界」が実在するならば、私達は、どんな姿で復活し愛する人々と再会するのでしょう?
若き日の姿?
臨終時の姿?
白骨の姿?
霊魂での再会?
同様に「怨憎会苦」(怨み憎しみあう者・事と会わなければならない苦しみ)の対象となる嫌な人々とも否応なく再会ですか!?
ならば「嫁姑」の確執問題も来世で、再び延長戦ですか?
迷いの「輪廻の生まれ変わり」との違いは?
どうやら私には様々な疑問と矛盾の〝?〟が浮かんできます。
もし「出会える世界」が「浄土」であると主張されるならば、そこには仏教的な理の通る説明責任があるはずでしょう。
曖昧なままに都合良く自己完結することが「信心の智慧」ではないはずでしょう。

浄土教の祖・曇鸞大師(真宗・第三祖)は、すでに「為楽願生」(世俗の欲望としての「楽」を来世の浄土に求める為の願生)を強く否定されています。そして親鸞聖人も「阿弥陀如来・浄土」について

真仮(化)を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。(『教行信証』真仏土巻・結び)

と語られています。
すなわち、「真仏土」としての「無量光明土・不可思議光如来」(=他力念仏の道を私達に明かす「如来[真如より来生する]・浄土[娑婆の土での欲望を悟りの智慧へと清浄化する]」の真実なるはたらき用)と、それを知らしめるための「方便(手だて)」としての「方便化身土」(来世のビジュアル的な浄土観=「また出会える世界」)の説示とを厳しく分判されます。
つまり「方便化身土」は、あくまでも「真仏土」のはたらき用をあらわすための「方便」(権化方便・報中の化)であると示されます。
 

これらのことについて、例えば、大谷光真・前御門主様は、
たしかに「浄土で会いましょう」とか、「今この世で別れても、またあの世で会いましょう」と言うときに、この世に生きている今の私たちが目にしたり手で感じるような形や色がそのまま死後にもあってそこで再会できる、という考え方はできないと思います。
「お浄土に往く」ということは、単純に美しく楽しい世界に往くということではなくて、仏になる、成仏する、往生成仏ということを親鸞聖人は重要視されている。
つまり、仏教の基本だと思いますが、さとりを開くということをおっしゃっているんです。(『今、ここに生きる仏教』)

とお示し下さっています。そして、村上速水和上も

彼のよろこびは摂取不捨の利益にあずかったという、獲信の一念にあったことは疑うべくもない。(中略)
だから、彼のすくいはそこですでに完結しているといってよい。(中略)
もしそのほかに、さらに望むべき「未来の浄土」があったとするならば、現実は依然として空しいものがあったとせざるを得ないし、真に充実していたとは言えないであろう。
「第十八願の信楽」は、自力欲生心ー未来の浄土を希求する心、の否定の上に成り立っている。(「親鸞のよろこび」)

と述べられておられます。
 
私達は、「誘引・悲引」としての「方便化身土」の表現形式を通しながら、さらに、その先に「阿弥陀(無量)」として「如来(浄土)」する「真宗の正意」としての「真仏土」のはたらき用を迷失することなく、今ここに信知すべきだと思います。(東京教区福源寺 副住職)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつでも心に留めておかなければならない話(1)

2020-02-23 10:02:30 | 日記

いつでも心に留めておかなければならない話(1)

初心に戻って 自分の法話を点検しています。


「浄土」は「また出会える世界」??  

渡邊了生(東京仏教学院講師) [2015年1月1日号(第118号)]

 

 

「また出会える世界」という言葉を、よく耳にします。それこそが親鸞聖人の「浄土」観の第一義であるかのように。
確かに「愛別離苦」(愛し合う者が離ればなれにならなければならない苦悩)の悲しみを抱える人達にとって「また出会える世界」は、その苦しみを癒すための未来の理想郷ともいえましょう。
けれども親鸞聖人は、そのような私達の現実の苦悩や欲求を都合よく満足させていく世界こそが「浄土」であると説示されたのでしょうか?

ある事故で婚約者を亡くされた方が、あまりの現実の苦悩・悲しみにさいなまれ、その後「あなたに会いたい、会うには私が行くしかない」という遺書を残し「また出会える世界」に旅立たれました。
その方の辛かったであろう「愛別離苦」の現実、そして、その解決を来世での再会に求めようとした遺書の文言を目の当たりにした時、私は「また出会える世界」こそが親鸞聖人の浄土観であると主張する声に「戸惑い」と「虚しさ」を感じました。
はたして「また出会える世界」を来世に願求すること、それのみが念仏者の「真実の証」という目的であり御信心の喜び・法味なのでしょうか?

もし仮に来世の「出会える世界」が実在するならば、私達は、どんな姿で復活し愛する人々と再会するのでしょう?
若き日の姿?
臨終時の姿?
白骨の姿?
霊魂での再会?
同様に「怨憎会苦」(怨み憎しみあう者・事と会わなければならない苦しみ)の対象となる嫌な人々とも否応なく再会ですか!?
ならば「嫁姑」の確執問題も来世で、再び延長戦ですか?
迷いの「輪廻の生まれ変わり」との違いは?
どうやら私には様々な疑問と矛盾の〝?〟が浮かんできます。
もし「出会える世界」が「浄土」であると主張されるならば、そこには仏教的な理の通る説明責任があるはずでしょう。
曖昧なままに都合良く自己完結することが「信心の智慧」ではないはずでしょう。

浄土教の祖・曇鸞大師(真宗・第三祖)は、すでに「為楽願生」(世俗の欲望としての「楽」を来世の浄土に求める為の願生)を強く否定されています。そして親鸞聖人も「阿弥陀如来・浄土」について

真仮(化)を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。(『教行信証』真仏土巻・結び)

と語られています。
すなわち、「真仏土」としての「無量光明土・不可思議光如来」(=他力念仏の道を私達に明かす「如来[真如より来生する]・浄土[娑婆の土での欲望を悟りの智慧へと清浄化する]」の真実なるはたらき用)と、それを知らしめるための「方便(手だて)」としての「方便化身土」(来世のビジュアル的な浄土観=「また出会える世界」)の説示とを厳しく分判されます。
つまり「方便化身土」は、あくまでも「真仏土」のはたらき用をあらわすための「方便」(権化方便・報中の化)であると示されます。
 

これらのことについて、例えば、大谷光真・前御門主様は、
たしかに「浄土で会いましょう」とか、「今この世で別れても、またあの世で会いましょう」と言うときに、この世に生きている今の私たちが目にしたり手で感じるような形や色がそのまま死後にもあってそこで再会できる、という考え方はできないと思います。
「お浄土に往く」ということは、単純に美しく楽しい世界に往くということではなくて、仏になる、成仏する、往生成仏ということを親鸞聖人は重要視されている。
つまり、仏教の基本だと思いますが、さとりを開くということをおっしゃっているんです。(『今、ここに生きる仏教』)

とお示し下さっています。そして、村上速水和上も

彼のよろこびは摂取不捨の利益にあずかったという、獲信の一念にあったことは疑うべくもない。(中略)
だから、彼のすくいはそこですでに完結しているといってよい。(中略)
もしそのほかに、さらに望むべき「未来の浄土」があったとするならば、現実は依然として空しいものがあったとせざるを得ないし、真に充実していたとは言えないであろう。
「第十八願の信楽」は、自力欲生心ー未来の浄土を希求する心、の否定の上に成り立っている。(「親鸞のよろこび」)

と述べられておられます。
 
私達は、「誘引・悲引」としての「方便化身土」の表現形式を通しながら、さらに、その先に「阿弥陀(無量)」として「如来(浄土)」する「真宗の正意」としての「真仏土」のはたらき用を迷失することなく、今ここに信知すべきだと思います。(東京教区福源寺 副住職)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄土真宗の他力とは(1)

2020-02-23 01:19:16 | 真宗と他力

浄土真宗の他力とは(1)


他力とは如来の本願力なり


 

小林一茶は、熱心な浄土真宗門徒だったとのこと。

 

「古池や蛙(かわず) 飛び込む水の音」

しか知らなかったのですが、僧侶になって一茶の言葉を色々と見つけています。

 

私の寺の住職に教えていただいた小林一茶の言葉を一つ紹介します。

 

「他力信心他力信心と 一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は 

  つひに他力縄に縛られて 自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候」

 

他力他力他力 とよく言う方がおられます。

そのような方にこの言葉をお話しさせていただきます。

他力他力と強調する方がおられますが、自力地獄の炎の中へぼたんとおち入っているんではないですか?

私も気をつけようと思います。

 

また

「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」

という句があります。

「あなた」とは阿弥陀仏のこと。「年の暮れ」とは自身の晩年のこと。

浄土へ往生できるかどうか自分には確かなことは分からないけれども、ともかくも阿弥陀様におまかせします、ということです。

 

おまかせすると言うことは何か?

阿弥陀様の生まれて来た意味を「聞(もん)」ということ。

親鸞聖人は

「聞といふは、衆生、仏願の生起本末をきて疑心あることなし、これを聞といふなり。」とおっしゃっています。(信巻)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二尊の遣喚

2020-02-12 22:25:03 | 日記

二尊の遣喚

 

って皆さんよく聞くのではありませんか?

 

【キーワード】 二河白道、釈迦の遣言、弥陀の招喚

 

 




前は弥陀

後ろは釈迦に

中は我

押され引かれて参るうれしさ

(出典 古歌)







◎釈迦「きみ ただ決定して この道を尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし止まらば すなはち死せん」


 弥陀「なんぢ 一心に正念にして ただちに来たれ、われよく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」




 ☆「玄義分」の序題門には、 
「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、
弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚び
ここに遣はす、あに去かざるべけんや」(『真聖全』一 ・四四三)


とあり、

「散善義」の回向発願心釈には、 


「仰いで釈迦発遣して指へて叫方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生るることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんと喩ふるなり」(『真聖全』一・五四一)
とあリマス。

また、『浄土文類聚鈔』には、 
「仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚によりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(『真聖全』二・四五二、『聖典全書』二・二七四)
とあリマス。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄土真宗の素晴らしさ

2020-02-12 22:18:43 | 日記

浄土真宗の素晴らしさとはなんでしょうか?

 

一言で言うと

 

現生正定聚

 

今生をこの身このままで

「仏に成る身にならせていただける」と言うことです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする