母を喪って5日が過ぎたがまだ実感が全然わいてこない。心に穴がポッカリ空いたような感じとはこんなことかとつくずく思う。
母の遺品を整理していると在りし日の母のことが想い出され涙で目頭が熱くなる。
私は母が大好きであった。何がと言ってもこれだとはっきり言えるものはない。だが、私が母を好きに思うのは生まれてこの方ずっと一緒に暮らしてきたからだと思う。
幼い頃、母は私にすごく優しかった。私には4人の兄弟がいたが、一番母の手を焼かせたのが私だった。なにせほかの3兄弟はみんな勉強もできスポーツも万能であったが、私ひとり学生時代全く勉強もできず遊んでばかりでいたからだ。
そんな私だったが私の記憶では母に叱られた記憶が全くない。幼い時から病弱だった私をいつも心配し可愛がってくれたし、勉強より動物が好きで外で遊んでばかりでいた私に父は厳しかったが母はいつもかばってくれた。
母は若い頃、生活が苦しい中で父を支え、家族を養うためにいろんな仕事をしながら一生懸命働いた。今では考えられないような、きつい仕事を当たり前のようししていた。そんな母の唯一の楽しみが酒であった。やりきれない気持ちを安らげるためだったと思う。(念のため申し上げると今風の若い女性が酒を飲むのとは全くちがって50年程前は生活苦に喘いでいた女性たちは少なからずこうした習慣があった。)
そんな中で私が一番嫌だったのは、母が疲れ切って帰ってきてはお金がないのに酒を買ってこいとよく使いに走らされたことだ。当時は日めくりカレンダーを横にしたような通い帳(現金がないのでつけをする手帳)なるものをもってコップ一杯の酒を買って帰るのだが恥ずかしくてたまらなかった。
逆に、私は子供のころコロッケが大好きで母が仕事帰りに、たまご入りコロッケ(当時は高級なおやつだった)をたまに買ってきてくれた時は嬉しくてたまらなかった。
私の母は小学校を途中でやめてしまったので殆ど文盲であったが記憶力だけはすごくよかった。女性は生活の過程であった事はすごく小さい事までよく憶えてるとよく聞くが、まさにその通りでいつ、どこで、何があったか何から何までよく覚えていた。その記憶のお蔭で私は幼い頃から母に色んな話を聞かせてもらい古い伝統や習慣、故郷の話や親戚や知人との出来事等、学校では学べないことを耳で覚えさせてもらったことを今でもありがたく思ってる。
働き尽くめだった母も50代になってからは持病のメニシュエル氏病で働けなくなり、専業主婦となったが私が高校時代、母が仕事場で目まいを起こし倒れたと電話連絡をもらい、急いで家に帰り何度も母を背負って病院に連れて行ったのを今でもよく覚えてる。
母は専業主婦になってからは生活が少し楽になったせいか結構わがままで、私や妻をよく困らせた。
一つ面白い話をすると、母は耳が少し遠いのをいいことに、自分の都合の悪いことは聞こえないふりをし、都合のいい話はコソコソ話までちゃんと聞きとり自分の思いのままに我がままを通した。(私の妻はこんな母と36年間同居し最後までよく面倒を見てくれた。本当に感謝している。)
こうした母も、孫やひ孫たちには優しかった。孫のためには何でも聞いてあげ、よく可愛がってくれた。根は本当に優しい母であった。そして、母も病床に臥す晩年まで家族親戚たちに大切にされ、それなりに幸せであったと思う。
2年前転倒によって大腿骨を骨折してからは、歩行がままならず介護施設にお世話になり、不憫な思いをしたと思うが、それでも風をこじらせ息を引き取るまでは元気でいたので幸いであったと思う。
こうして母の在りし日のことを思い起こすと、母が今にも私の目の前に現れそうだけど、それも叶わぬ夢となった。もう母とは写真でしか会えなくなったのだ。
今はただただ母の冥福を祈るばかりである。