自問自答を繰り返すとき、一方の自分はただただ問うばかりである。その問いにもう一方の自分はただただ答える。
これは相手が自分であろうが他人であろうが同じことである。一方が問い、一方が答える。答えにたどり着くのはこの方法がいい。お互いに答えを出し合う、つまり意見を交換するのは感心しない。主張がぶつかり、答えにたどり着くことが目的ではなくなり相手をねじ伏せるのが目的になりかねない。討論だの議論だのというものは得てしてこういうものである。
問う側はただ聞いていればいい。相手の答えが混乱していれば整理する必要はあるが、基本的には聞き、そして問いかければいい。考えを挟んだり、考えを誘導するような言葉は使わないことである。答えは答える側が考えるのであって問う側が考えるのではない。
これは私の経験則で書いているのだが、なんのことはない、考えてみればこれはソクラテスのやり方である。ソクラテスは対話により真理にたどり着こうとし、結果的に相手は自身の考えに潜む誤謬に気づき愕然とする。もちろんソクラテスは相手をねじ伏せるためにしているのではない。討論ではなく対話をしているだけである。
対話によりたどり着いた答えが正しいとは限らない。しかし答えた側には考えただけの手ごたえはある。問うた側には答えた側の思考プロセスが見えている。間違えたならどこで間違えたかがわかる。が、それは一時保留でいいだろう。答えを求めた側のたどり着いた答えが正しい。
人を育てるときも同じである。その人が答えを求めているなら、すべきことは答えを与えることではなく、その人が答えにたどり着けるよう問いを発することである。問えばその人は自ら考え自ら答えにたどり着く。
碁のことを手談ともいう。手による対話である。一手一手が相手に対して問うているのであり、相手に対しての答えでもある。ただし指導碁なら指導される側はただただ問われ続けるのである。
世界は対話であるといっていい。お互いに答えを求め問い合っているのである。が、得てして討論になり相手をねじ伏せることに躍起になっているから始末に悪い。大切なことを見誤っているのだ。相手をねじ伏せたところで気分はいいかもしれないが間違った方向へ進んでは意味がないではないか。大切なことは何か、求めているものは何か、改めて考えたほうがよかろう。
これは相手が自分であろうが他人であろうが同じことである。一方が問い、一方が答える。答えにたどり着くのはこの方法がいい。お互いに答えを出し合う、つまり意見を交換するのは感心しない。主張がぶつかり、答えにたどり着くことが目的ではなくなり相手をねじ伏せるのが目的になりかねない。討論だの議論だのというものは得てしてこういうものである。
問う側はただ聞いていればいい。相手の答えが混乱していれば整理する必要はあるが、基本的には聞き、そして問いかければいい。考えを挟んだり、考えを誘導するような言葉は使わないことである。答えは答える側が考えるのであって問う側が考えるのではない。
これは私の経験則で書いているのだが、なんのことはない、考えてみればこれはソクラテスのやり方である。ソクラテスは対話により真理にたどり着こうとし、結果的に相手は自身の考えに潜む誤謬に気づき愕然とする。もちろんソクラテスは相手をねじ伏せるためにしているのではない。討論ではなく対話をしているだけである。
対話によりたどり着いた答えが正しいとは限らない。しかし答えた側には考えただけの手ごたえはある。問うた側には答えた側の思考プロセスが見えている。間違えたならどこで間違えたかがわかる。が、それは一時保留でいいだろう。答えを求めた側のたどり着いた答えが正しい。
人を育てるときも同じである。その人が答えを求めているなら、すべきことは答えを与えることではなく、その人が答えにたどり着けるよう問いを発することである。問えばその人は自ら考え自ら答えにたどり着く。
碁のことを手談ともいう。手による対話である。一手一手が相手に対して問うているのであり、相手に対しての答えでもある。ただし指導碁なら指導される側はただただ問われ続けるのである。
世界は対話であるといっていい。お互いに答えを求め問い合っているのである。が、得てして討論になり相手をねじ伏せることに躍起になっているから始末に悪い。大切なことを見誤っているのだ。相手をねじ伏せたところで気分はいいかもしれないが間違った方向へ進んでは意味がないではないか。大切なことは何か、求めているものは何か、改めて考えたほうがよかろう。