瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#138

2013-08-22 23:33:17 | 考える日々
生物は化学反応をすることで生命を維持している。機械論風にいえば肉体は化学プラントである、といった感じか。だから肉体で起きていることは化学式で表現できる。つまり法則があるわけだ。ま、すべての法則がわかっているわけでもないので、治せない病気があったりもするけど。

一方、心はどうなのか。肉体同様、法則はあるのか。私はあると思う。心と肉体はつながっているのだから、肉体が法則をもっていれば、心もその法則の影響を受けるのは当然である。心の動き方が肉体と無関係であるはずがない。
とはいえ、心の運動すべてが肉体と連動しているわけでもない。法則に縛られない心の運動もあるはず。心は自由だ。さあ、どうかしら。自分の行動を思い返して見ると必ずしも自由とはいえない気がする(正直なところ自由という言葉を使うと意味合いがズレているようにも思うのだが、適当な言葉が思いつかない)。

自分の心の動きはだいたい読める。ああいうことには、こう反応する。たいてい決まっている。時には自分でも思いがけないことをしたりもするけど、そんな突拍子もないことは稀である。こういうのを普通は個性という。だがこの個性、別の謂いをすれば個人的法則のことではないか。心の運動もやはり法則に依っている。物理法則は数式で、化学反応は化学式で書けるが、心の運動法則はそのような表現ができないというだけである。

じゃ我々は法則によって動いているだけなのか。肉体も心も。どうもそういうことらしい。これは、はなはだ面白くない結論になってしまった。自分がただ法則を表現しているだけというのでは、なんのための人生か、である。我々に自由はないのか。法則どおり、ああすればこうなる、ということをしているだけなのか。それじゃ、なんともつまらない。
ま、モノ謂いの違いというだけのことかもしれないがね。個人的法則を個性と換言し、個性をほかの誰でもない自分と換言すれば、自分は自分の人生を間違いなく生きているわけで、その人生がつまらないはずはない。

で、結局のところ、どうなんだ? 我々という現象は法則を具現化したものなのか?
ここで別の見方をしてみよう。人間の法則についてとなると占術がその領分である。ま、私はべつに占いに詳しいわけでもないから、誰でも知っているようなことしか書けないがね。
とりあえず、今回はこんなところです。占いの話は、いずれまたの機会に。
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