瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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#139

2013-08-24 16:03:17 | 考える日々
占術といって真っ先に思い浮かべるのは一般的になんだろう。そもそもこういうものに一般的なんて言い方は通用しないか。占いを信じない人にはどうでもいいことだし、占いを信じるにしたって人それぞれ信じる占術は違うし。
ま、どんな雑誌にの載っていることを考えれば、占星術が一般的といってもいいのかなとは思うけど。

占星術の本を読んだのは随分以前のことなので記憶もあいまいなのだけれど、大雑把にいってしまえば人は星に運命付けられているという解釈をするのが占星術。生まれた日時の星の配置がその人の性質を決め、その時々の星の配置で運命を読み解く。ホロスコープを書き、それぞれの星の位置関係からさまざまなことを読み解くのは面白そうではあるが、まじめにやりだすと大変な作業で、私は自分でやってみようとは思わなかった。仕組みがなんとなく分かったところで満足。ま、その程度の興味でしかなかったということである。

星の運行には法則がある。その法則を人間に応用しようと考えたのが占星術。法則を適用すれば見えない未来も見通せるというわけ。と、わかったふうに書いているけど、実際占星術がどのように始まったのかは知らない。以前読んだ本に書いてあったかもしれないが忘れてしまった。未来を知りたいから天体の運行の法則を援用したのか。あるいは人生とはなんぞや、という問いに対する答えなのか。はたまた、天上に展開される神々の物語を(各星には神々が割り当てられ、星には性格付けがされているからね)、地上の我々と関連付けることで全体的な統一を図ろうとしていたのか。

それはともかく、人間には法則があって、その法則に従って生きている、というのが占星術の人に対する見方である。未来を言い当てることができると占い師がいうのは、法則があればこそである。ただし、霊感的な占いは別だけど。
私が前回、人に法則があるとしたのは、未来が知りたいゆえの法則探しではなく、肉体に法則があれば心にも法則はあるだろうという素朴な、というか単純な、いや短絡なといったほうがいいかもしれないが、ま、そんな考えである。

自分で考えておいてなんだが、正直なところ人に法則なんてないほうが私はいい。たんなる好き嫌いとしてね。私は法則があることを嫌うのだが、未来を知りたい人にとっては法則があるほうが安心なのかもしれない。
好き嫌いは別として真実はどちらなのか。さあ、どうだろう。真実がどうなのだかはわからないというしかないだろう。法則があるか、ないか、なんて実証しようがないもの。占星術は当たるから法則はあるのだ、という考えもあるかもしれないが、当たるか当たらないかという解釈は心理的なこともあるからね。占星術をもって実証したことには、もちろんならない。また、私の短絡な考え方をもって法則があるともいえない。

どうでもいいことだが、こんな書き方をしていると私は占星術を否定しているように読めるかもしれないけど、決してそうでもない。合理的に考えれば可怪しな考え方だと思うよ、占星術って。遠くにある星がなぜ私に影響するのさ。もっとも近い月だって特に影響を感じないのに。月の満ち欠けの周期が生理に関係するから星の影響を無視する気はないけど、それと運命は別でしょう。そうは思うけれど私は好きなのである。天体の運行と我が人生が連動しているというスケール感が好い。好きだとなるとあばたもえくぼで、あやし気なところが愉しくなったりもする。こういう世界観もアリだと思うのである。

法則があるか、ないか。真実はわからないとしつつも、私は法則はあるという考えに傾いてしまう。法則があることを嫌いつつも、あると考えてしまう。なぜか。占星術を可怪しいと考えるくせに。自分の考えも短絡だとするくせに。
それは別の占術を半信半疑ながら認めているからである。四柱推命。これにはあなどれないものがあると感じてしまう。

では、四柱推命の話はまたの機会に。今回はこんなところです。
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