12月になり、このブログを書き始めて一年が過ぎたことになる。書き始めたときは毎日更新してて、それなりに負荷でもあり、これでは保って一年だろうと思っていた。ま、途中から案の定、不定期更新になり、そのまま書かなくなってもおかしくはなかったけれど、ともかくも一年はつづけようと励ましつつここまで書いてきた。毎日更新の方針は挫折したけれど、一応初志貫徹。
さて今後どうするか。書きつづけるより書かないほうが楽に決まっている。なにもわざわざ自ら望んでしんどいことをすることもない。私は楽なことを好むのだ。とはいうものの、ここでやめてしまうのは、なんだか中途半端な気がしなくもない。書き始めたときは一年書けば充分だと思ったけれど、一年経って感じるのは、ここで筆を擱(お)くのは放り捨てるのと同じことのようであるということ。途中で投げ出すのと同義であるという感じ。一年というのは始めるときには長く感じるけれど、終わってみれば案外短い。まだまだ先があるような気がして、ここはまだ道の途中という感じしかしない。どこかへたどりついたという感じはない。
というわけで、もう少しつづけます。とりあえず、あと一年。一年後、また書き続けるか否かはそのとき検討するということで。
一年間という時間で区切ったが、区切り方としては時間のほかに分量がある。何回をもって終了というやり方。何回に設定するかだけど、回数になると変な欲がでて「アラビアンナイト」を意識してしまう。つまり千夜一夜、1001回である。一年書いて150回にしかならなかったが、これでも私にしてみればハイペース。今後このペースはありえないが、週に一回は書きたいと考えているので、年間50回くらいは更新することになる。で、1001回となると残り850回だから、あと17年書かないと到達しない。気が遠くなるね。ま、これはないな。私に17年後があるかどうかもわからんし。
ともかく一年毎に検討ト。またしばしお付き合いのほどを。
それにしても、なんのためにこんなものを書いているのか。自分でもよくわからないけれど、ほかの人が書く動機を綴っているのを読んだときに、ああ私にもこんな思いはあるな、と共感しそれによって自分がなんのために書くのかを確認しているようなところはある。
最近読んで、私にもこの思いはあるなと確認したのは海音寺潮五郎「中国英傑伝」(文春文庫)のあとがき。
「人間はいろいろな知識が豊富にあれば、深く豊かな楽しみをもって生きて行くことの出来るものではあるが、知らなくても単に生きて行くためなら少しもさしつかえはない。世の中には生活の資をかせぐだけのことしか知らず、他のことには全然の無知識でありながら、何の不自由も感ぜず、結構楽しげに生きている人が多い。自らの無知に不自由を感じ、恥ずかしいと思いはじめるのは、いくらかでも知識があるようになってからのことだ。おれのすることは不十分でも、不自由を感じはじめさせるくらいなことは出来よう。そうしたら、自然無知を恥じて知識欲も出て来るであろう」
海音寺潮五郎とは違い、私は知識欲を喚起するために書いているわけではないけれど、思いは同じようなところがある。私の考えているような、地に足の着かないふわふわしたことなんぞ、考えなくても単に生きていくについては何の支障もない。それでも生きて死んでいく自分と向かい合うことが出来る人間という在り方をしているなら、「これは何か」と問うほかに在り方なんぞないはず。だから私の書くものが不十分なのは承知しているが、それでもそういうことを考える切っ掛けくらいにはなるだろうとの思いはあって、こうして書きつづけているのである。
アンディ・ルーニーが書いていることにも共感する。
「新しいべつのアイディアが持てなくても、どうということはない。(中略)われわれはいまだに古いアイディアを理解はしていない。わたしは自明とされているものを明確にしてゆくことに満足している」
世の中は新しいものを価値とするけれど、新しいものは遠からず古くなり価値でなくなる。その程度の価値を追いかけても仕方がないわけで、取り扱うべき価値はほかにあるのである。
荻原魚雷は「アンディ・ルーニーは、わからせるのではなく、知りたいとおもわせ、考えたいとおもわせる文章を書くコラムニストでもあるのだ」と書いている。私の書くものもそのようでありたいと思う。ようは私の書くものは取っ掛かりで、その先を考えるのは読んでいるあなたである。果たして私の書いているものはそうなっているのだろうか。そうなっていれば成功で、こんなにうれしいことはない。
以上、一年が経過した今の私が考えるこのブログについてでした。
追記(どうでもいいこと)
「お休みの回」と題したのは、当初は毎日更新してたから更新しないときにはその告知として本当に言葉どおりの意味としての「お休み」だったのである。
いつからか通常モードとは違うときに「お休みの回」と題するようになったのだが、たしかに通常モードは「お休み」だからこれでいいとはいうものの、私としては、お休みっていうわりには書きまくってンなあ、という違和感があり常々他の題に変えたかったのである。
で、今回から変えた。通常モードを主菜と見立てれば、今回のような内容は箸休めというわけ。読んでいるほうにとってはどうでもいいことだろうけど、ま、書いている私の気分としてはこれでようやく落ち着いたといったところ。
さて今後どうするか。書きつづけるより書かないほうが楽に決まっている。なにもわざわざ自ら望んでしんどいことをすることもない。私は楽なことを好むのだ。とはいうものの、ここでやめてしまうのは、なんだか中途半端な気がしなくもない。書き始めたときは一年書けば充分だと思ったけれど、一年経って感じるのは、ここで筆を擱(お)くのは放り捨てるのと同じことのようであるということ。途中で投げ出すのと同義であるという感じ。一年というのは始めるときには長く感じるけれど、終わってみれば案外短い。まだまだ先があるような気がして、ここはまだ道の途中という感じしかしない。どこかへたどりついたという感じはない。
というわけで、もう少しつづけます。とりあえず、あと一年。一年後、また書き続けるか否かはそのとき検討するということで。
一年間という時間で区切ったが、区切り方としては時間のほかに分量がある。何回をもって終了というやり方。何回に設定するかだけど、回数になると変な欲がでて「アラビアンナイト」を意識してしまう。つまり千夜一夜、1001回である。一年書いて150回にしかならなかったが、これでも私にしてみればハイペース。今後このペースはありえないが、週に一回は書きたいと考えているので、年間50回くらいは更新することになる。で、1001回となると残り850回だから、あと17年書かないと到達しない。気が遠くなるね。ま、これはないな。私に17年後があるかどうかもわからんし。
ともかく一年毎に検討ト。またしばしお付き合いのほどを。
それにしても、なんのためにこんなものを書いているのか。自分でもよくわからないけれど、ほかの人が書く動機を綴っているのを読んだときに、ああ私にもこんな思いはあるな、と共感しそれによって自分がなんのために書くのかを確認しているようなところはある。
最近読んで、私にもこの思いはあるなと確認したのは海音寺潮五郎「中国英傑伝」(文春文庫)のあとがき。
「人間はいろいろな知識が豊富にあれば、深く豊かな楽しみをもって生きて行くことの出来るものではあるが、知らなくても単に生きて行くためなら少しもさしつかえはない。世の中には生活の資をかせぐだけのことしか知らず、他のことには全然の無知識でありながら、何の不自由も感ぜず、結構楽しげに生きている人が多い。自らの無知に不自由を感じ、恥ずかしいと思いはじめるのは、いくらかでも知識があるようになってからのことだ。おれのすることは不十分でも、不自由を感じはじめさせるくらいなことは出来よう。そうしたら、自然無知を恥じて知識欲も出て来るであろう」
海音寺潮五郎とは違い、私は知識欲を喚起するために書いているわけではないけれど、思いは同じようなところがある。私の考えているような、地に足の着かないふわふわしたことなんぞ、考えなくても単に生きていくについては何の支障もない。それでも生きて死んでいく自分と向かい合うことが出来る人間という在り方をしているなら、「これは何か」と問うほかに在り方なんぞないはず。だから私の書くものが不十分なのは承知しているが、それでもそういうことを考える切っ掛けくらいにはなるだろうとの思いはあって、こうして書きつづけているのである。
アンディ・ルーニーが書いていることにも共感する。
「新しいべつのアイディアが持てなくても、どうということはない。(中略)われわれはいまだに古いアイディアを理解はしていない。わたしは自明とされているものを明確にしてゆくことに満足している」
世の中は新しいものを価値とするけれど、新しいものは遠からず古くなり価値でなくなる。その程度の価値を追いかけても仕方がないわけで、取り扱うべき価値はほかにあるのである。
荻原魚雷は「アンディ・ルーニーは、わからせるのではなく、知りたいとおもわせ、考えたいとおもわせる文章を書くコラムニストでもあるのだ」と書いている。私の書くものもそのようでありたいと思う。ようは私の書くものは取っ掛かりで、その先を考えるのは読んでいるあなたである。果たして私の書いているものはそうなっているのだろうか。そうなっていれば成功で、こんなにうれしいことはない。
以上、一年が経過した今の私が考えるこのブログについてでした。
追記(どうでもいいこと)
「お休みの回」と題したのは、当初は毎日更新してたから更新しないときにはその告知として本当に言葉どおりの意味としての「お休み」だったのである。
いつからか通常モードとは違うときに「お休みの回」と題するようになったのだが、たしかに通常モードは「お休み」だからこれでいいとはいうものの、私としては、お休みっていうわりには書きまくってンなあ、という違和感があり常々他の題に変えたかったのである。
で、今回から変えた。通常モードを主菜と見立てれば、今回のような内容は箸休めというわけ。読んでいるほうにとってはどうでもいいことだろうけど、ま、書いている私の気分としてはこれでようやく落ち着いたといったところ。