瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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お休みの回(気散じ 其之弐)

2013-11-23 18:18:00 | 考える日々
で、漫画の「神曲」を手に取ったわけだけど、臥せっているときに読むもんじゃないね。病んでいるのにダンテといっしょに地獄巡りなんてしてたら、ますます気が滅入る。たんに地獄はこんな処って描いているだけかもしれないけれど、なんだか脅かされているような気分にもなるし。悔い改めないとお前もここへ落ちるのだぞってね。でも地獄でのた打ちまわっている人々はだれもがしているようなことで地獄にいるんだもの。あたしも地獄に落ちるに決まっている。だいたい、なんで英雄オデッセウスまで地獄にいるのさ。オデッセウスにしてこうなら、もう人間の業として地獄に行くしかないじゃない。

あたしはキリスト教のことは何も知らないけれど、たぶん「神曲」の世界観はキリスト教のそれでしょう。あたしにとってはこの世界観はちょっと厳し過ぎるというのも読んでいてつらいのよね。キリスト教は排他的で(一神教だから当然だけど)異教徒は問答無用で地獄行きだし。潔癖過ぎて苛烈というか、もう少しなんとかならんものかいね。描かれる罪はなるほどもっともだけれど、それにしたってこれはあんまりじゃありませんかって気持ちになるのよ。

最近読んだ墨家の思想もそんなところがあったね。読んだのは駒田信二「墨子を読む」(勁草書房)。説くところはもっともだけれど、もう少し説き方に工夫をしましょうよと云いたくもなるような潔癖感がある。これが当然だ、なぜこんなことがわからんのだという墨子の苛立ちが聞こえてきそうな説き方をする。この人は潔癖過ぎて性急過ぎるのだ。だから結果からモノを言うことになり、その論理は詭弁に聞こえてしまう。いくら結論が正しくとも詭弁に聞こえては正しい結論も胡散臭くなる。いっそ理屈は抜きにして、おれを信じてついて来いといったほうがいいくらいだ。だから思想というより宗教という形をとったほうが墨家は生き残ったような気がする。ま、兼愛だの非攻だのと説けば権力者から圧力は掛かるだろうけど。それに節葬だの非楽だのといえば儒家と揉めるに決まっているけど。

ま、それはさておき、病を得ているときに「神曲」は身体に良くないのよ。ま、元気なときに読んでも結構堪えそうだけど。漫画ではなくダンテの書いたものも読むつもりでいたけれど、どうしようかしらね。それにキリスト教について何も知らないのでは話にならないようなので、解説本でも横に置いて読んだほうがいいとなると手間もかかるし。でも頭で読むこともないのかもしれない。ダンテを案内するヴィルギリウスの言葉にこうある。「おまえは理屈で考えず 見て知ることが大事なのだ 人が理詰めで行ける道には かぎりがあるのだ」。これは永井豪が書いたものか、原作にもあるのかは知らないけれど、ともかくキリスト教がどうだとかは考えず、世界観のイメージだけを素直に追っていくのが正しい読み方かもしれない。それに解説で佐藤亜紀が書いている。「この世には、神秘家にしか見えないものがある。いや、当の神秘家にさえ、いわゆる意味では見えていない、と言ってもいいかもしれない。それは視覚ー或いは感覚による把握の外にあって、見える、聞こえる、と言う表現さえ比喩的にしか使えない対象なのである」。語りえないものについて語ろうとしているのだから、頭で理解しようとしないほうが理解しやすいのかもしれない。
ま、気が向いたら次はダンテのを読むとしましょうか。地獄巡りはしんどいけれど、天国の光の中へ導かれて行くときは救われるしね。

とはいうものの、「神曲」はあたしにとって厳格過ぎるのは間違いなく、性に合うというなら「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」の地獄巡りのほうがいいのよね。あたしは真面目なのは苦手なのよ。なにごとも笑い飛ばしていたいのよね。とはいえ、哀しいかな、なかなか笑い飛ばせないのが現実だけど。
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