選択しようのないことは結構ある。生まれた時代とか国とか。親が誰であるかとか。
では、それ以外のことは自ら選択したことなのか。さあ、どうだろう。選択できることであっても案外自分の判断で選択したことは少ないのかもしれない。選択肢は確かに存在するが、そうせざるを得ないという追い込まれ方をするときもあるだろう。それでは実質選択の余地はない。あるいは、自分では己の判断で動いている気でいても、そのような状況では誰でもそうするであろうことなら、選択したというほどのことでもない。型どおりというだけ。
自由に選択できるというのは、実は幻想である。見えない糸に絡めとられ、思っているほど我々は自由ではない。身動きできる範囲は限られている。と、こんな言い方も可能かもしれない。
逆に、見えない糸こそ幻想である。自分の生み出した幻想により、自分で自分の可能性を狭くしているだけ。それを自縄自縛という。我々は真に自由なのだ。と、そんな言い方も可能だろう。
孫引きなので真偽のほどはわからないが、カサノヴァが言っているらしい。「人は自由である。しかし、自分が自由であるということを信じなければ、もはや自由ではない。」
コピー風にまとめれば、「それは、あなたの選んだことですか」といったところか。あるいは「すべてを手に入れられるよ。だって、あなたは自由だもの」なんていうのはどうかしら。
ま、コピーの出来はともかく、内容的にまとめれば、こんな感じのこと。しかし、実は書きたいことはこういうことではない。別の意味で、やはり我々は選択できることを選択していない場合もあるのではないかということ。別の意味とは、それが選択可能なことだと気がつかないでいるという意味。そもそも選択肢が存在していることに思い至ってないから、当然選択もしないという意味合いで。
そうであることが当然。そのように刷り込まれてしまえば、ほかの在り方なんぞ考えもしない。当たり前すぎることは、そもそも考えの埒外である。それが前提であるなら、前提を問うなんてことはしない。
選択肢が死角に入っていやしないか。当たり前すぎると、それが当たり前であるということにすら気付けない。その部分は何も考えることなく受け入れてしまうから、実はそこにも選択の余地があるということを知らずにいる。死角に入っている。
抽象的でわかりにくいことは承知している。わかりやすく書く努力をすると長くなりそうだ。長くなると気力がもたないので、さっさと切り上げるために、結論だけで、あえて押しまくっている。
当然だということを果たして本当に当然で済ませていいのかと考え直せば、随分と在り方は変わるはずである。ただし、いちいち考えていては面倒くさいことこの上ないのは間違いない。それに大勢がそれを当然としていることからズレることにもなりかねず、ま、結果的に変人扱いされたりもする。だから他(ひと)に勧める気は毛頭ない。ただ、あまりにも安易に受け入れ、何も考えないまま当然としていることに、私は少々苛立っているのである。自分もそうだし、ほとんどの人がそうでもある。当たり前すぎることには、なかなか気がつけないとはいうものの、もう少し根っこから問い直してもいいのじゃないかしらん。本当にこれでいいのか。別の在り方もあるんじゃないのか。選択できるはずのことを選択していないのではないか。ただの惰性でそうしているだけなのでは?
人生とは大いなるマンネリズムである、と誰かが云った。たしかにそういうものだろう。惰性でずるずると繰り返すだけ。何も考えず型通りの行為に終始する。それは事実であろうが、一方でそういうことを是認することがたまらなく情けなかったりもするのである。
では、それ以外のことは自ら選択したことなのか。さあ、どうだろう。選択できることであっても案外自分の判断で選択したことは少ないのかもしれない。選択肢は確かに存在するが、そうせざるを得ないという追い込まれ方をするときもあるだろう。それでは実質選択の余地はない。あるいは、自分では己の判断で動いている気でいても、そのような状況では誰でもそうするであろうことなら、選択したというほどのことでもない。型どおりというだけ。
自由に選択できるというのは、実は幻想である。見えない糸に絡めとられ、思っているほど我々は自由ではない。身動きできる範囲は限られている。と、こんな言い方も可能かもしれない。
逆に、見えない糸こそ幻想である。自分の生み出した幻想により、自分で自分の可能性を狭くしているだけ。それを自縄自縛という。我々は真に自由なのだ。と、そんな言い方も可能だろう。
孫引きなので真偽のほどはわからないが、カサノヴァが言っているらしい。「人は自由である。しかし、自分が自由であるということを信じなければ、もはや自由ではない。」
コピー風にまとめれば、「それは、あなたの選んだことですか」といったところか。あるいは「すべてを手に入れられるよ。だって、あなたは自由だもの」なんていうのはどうかしら。
ま、コピーの出来はともかく、内容的にまとめれば、こんな感じのこと。しかし、実は書きたいことはこういうことではない。別の意味で、やはり我々は選択できることを選択していない場合もあるのではないかということ。別の意味とは、それが選択可能なことだと気がつかないでいるという意味。そもそも選択肢が存在していることに思い至ってないから、当然選択もしないという意味合いで。
そうであることが当然。そのように刷り込まれてしまえば、ほかの在り方なんぞ考えもしない。当たり前すぎることは、そもそも考えの埒外である。それが前提であるなら、前提を問うなんてことはしない。
選択肢が死角に入っていやしないか。当たり前すぎると、それが当たり前であるということにすら気付けない。その部分は何も考えることなく受け入れてしまうから、実はそこにも選択の余地があるということを知らずにいる。死角に入っている。
抽象的でわかりにくいことは承知している。わかりやすく書く努力をすると長くなりそうだ。長くなると気力がもたないので、さっさと切り上げるために、結論だけで、あえて押しまくっている。
当然だということを果たして本当に当然で済ませていいのかと考え直せば、随分と在り方は変わるはずである。ただし、いちいち考えていては面倒くさいことこの上ないのは間違いない。それに大勢がそれを当然としていることからズレることにもなりかねず、ま、結果的に変人扱いされたりもする。だから他(ひと)に勧める気は毛頭ない。ただ、あまりにも安易に受け入れ、何も考えないまま当然としていることに、私は少々苛立っているのである。自分もそうだし、ほとんどの人がそうでもある。当たり前すぎることには、なかなか気がつけないとはいうものの、もう少し根っこから問い直してもいいのじゃないかしらん。本当にこれでいいのか。別の在り方もあるんじゃないのか。選択できるはずのことを選択していないのではないか。ただの惰性でそうしているだけなのでは?
人生とは大いなるマンネリズムである、と誰かが云った。たしかにそういうものだろう。惰性でずるずると繰り返すだけ。何も考えず型通りの行為に終始する。それは事実であろうが、一方でそういうことを是認することがたまらなく情けなかったりもするのである。