瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#136

2013-07-31 00:00:11 | 考える日々
禅では円悟と云ったりもするから、円相はつまり悟るということで、なにを悟るのかというとそれは真理だから円相は真理でもあるだろう。真理というのは世界というか宇宙というか、ま、全存在のことでもあろうから、円相とは存在の謎に対する答えでもある。

わかったふうなことを云えば上記のようなことになるが、私は私で勝手な解釈もする。円相は我々の在りようである。言葉を換えれば関係性である。関係性の究極な形を円相は示す。
理屈っぽいことを云えば、円は圧力が均等にかかる。だから関係性としては長持ちする。歪(いびつ)な形は圧力のかかり方が不均等。強い圧力がかかるところから崩壊する。

関係性は小さなところでは個人対個人。大きく見れば個人対組織あるいは社会。さらには国対国。もっと大きく人類対自然という切り取り方もある。すべては関わりあっているのだから、どんなふうにも関係は切り取ることはできる。
はたして、これらの関係性は円を描いているのだろうか。私には歪にしか見えないのだが。一方的な関係が多いように思える。円を描かないものは長続きしまい。ま、長続きしなければ所詮その程度ってだけの話だが。その程度なものはさっさと自滅して次のものがより善い関係を築けばいい。善いものが存続する。悪いものは滅ぶ。わかりきったことだ。

円を描く、その根源となる駆動力は何か。愛である。エロスである。今の世界には愛が足りないのだ。あるのは自己愛ばかりだ。私はそれを愛とは呼ばないがね。それは我欲、我執だ。エゴだ。そんなものが跋扈すれば円なんぞ描けようもない。
実は愛が足りないのは今の世界に限ったことでもない。ずっとそうだった。人間の本質はちっとも変わらない。よくいままでやってこれたものだ。感心もするが呆れもする。円を描かないでも数千年は保(も)つらしい。ま、保ち堪(こた)えればいいというわけでもないと思うが。歪で不愉快な状態が数千年つづいていると考えれば、それは悪夢でしかない。なにを好き好んで悪夢を見る必要があるのか。わけがわからん。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« #135 | トップ | #137 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。