川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」(講談社文庫 2019年)
まだ読んでいる最中なんですけどね。気になる言葉が出てきたものですから。
おれは、生きてることの意味について考えたことなんて、めったにないよ。だって、おれは現に生きてるんだもの。その意味を考えるより、生きてること自体からあらわれる、もっと具体的なことを考える方が楽しくないか? たとえば、研究所のれいの知り合いのように、食べることが楽しいってことの意味とかね。
時には「生きてることの意味」なんぞということを誰しも考えたりするもんでしょう。で、たいていの場合、考えはまとまらないと思います。でもそれでは落ち着かないので、暫定的にでも納得のできるような答えをひねり出して、とりあえず棚上げにする。これが賢明な対応だと思います。こんな問いに関わっていると日常生活に支障をきたしますからね。ともかくも今は晩のおかずを何にするかを考えなきゃ。
あたくしは“生きてることに意味はない”ってバッサリ切り捨て、それ以上考えないことで平穏な日常を維持しております。でも意味はないってことは、いかようにも意味付けできるってことでもありまして、あとはその時の気分でお好きなようにお選びくださいってことも可能です。
最近のあたくしは元気がないので、ひたすら動物に徹してただその日を生きのびることだけに腐心する。生きるために生きている、そんな状態。元気がないときにあれこれ面倒くさいことを考えてちゃ神経衰弱になるばかりです。生きるために生きているというシンプルさに徹するのが楽でいい。で、元気が出てきたら前向きな意味でも取って付ければいい。“生きてることに意味はない”ってのは意味を取ったり付けたり自由自在で使い勝手のいい考え方です。
「生きてること」それ自体の意味を考えたくなるのもわかりますが、小説内の登場人物が言うように「生きてること自体からあらわれる」ことの意味を考えるのもひとつの手段ですね。根源的なことを問うと泥沼であがくことになるので問いをズラしてしまうのも日常を平穏にたもつ技術です。登場人物が言うように実際「現に生きてる」わけですから、いまさら「生きてること」自体の意味を問うより「生きてること」で起こるさまざまな事象について考えるほうが結論も得やすく、泥沼にハマることもない。ま、間断なく次から次へと何かしら起こるのが人生でして、これはこれで日常の平穏をたもつのは難しかったりもしますけど。
そもそもその意味を考えるより先に「生きる」とは何か? と問うのが順番ですけどね。その行為というか現象というか、それが何かが解っていないと意味が解るはずもありません。それは何か? を理解してのち、その意味を問うことが可能になるわけです。“それ”が何であるかも解っていない状態でいきなり意味は問えません。
いきなり「生きてること」の意味を問うということは、おそらく「生きてること」は自明であってそれを問うなんて考えもしないのでしょう。あたくしにとっては自明どころかこれこそがもっとも不思議なことなんですけどね。「生きる」って何が何やらさっぱりわからない。何ですか、これ?
ってえか、「在る」ことが不可思議。「無い」んじゃなくて「在る」。何、これ?
ま、根源的なことを考えると底なし沼なので、そんなことはほどほどにして日常に帰還するといたしましょう。現に生きてるんですから、つべこべ言わずに日常を生きればいいんです。
さて、晩のおかずはなんにしようかしら。
まだ読んでいる最中なんですけどね。気になる言葉が出てきたものですから。
おれは、生きてることの意味について考えたことなんて、めったにないよ。だって、おれは現に生きてるんだもの。その意味を考えるより、生きてること自体からあらわれる、もっと具体的なことを考える方が楽しくないか? たとえば、研究所のれいの知り合いのように、食べることが楽しいってことの意味とかね。
時には「生きてることの意味」なんぞということを誰しも考えたりするもんでしょう。で、たいていの場合、考えはまとまらないと思います。でもそれでは落ち着かないので、暫定的にでも納得のできるような答えをひねり出して、とりあえず棚上げにする。これが賢明な対応だと思います。こんな問いに関わっていると日常生活に支障をきたしますからね。ともかくも今は晩のおかずを何にするかを考えなきゃ。
あたくしは“生きてることに意味はない”ってバッサリ切り捨て、それ以上考えないことで平穏な日常を維持しております。でも意味はないってことは、いかようにも意味付けできるってことでもありまして、あとはその時の気分でお好きなようにお選びくださいってことも可能です。
最近のあたくしは元気がないので、ひたすら動物に徹してただその日を生きのびることだけに腐心する。生きるために生きている、そんな状態。元気がないときにあれこれ面倒くさいことを考えてちゃ神経衰弱になるばかりです。生きるために生きているというシンプルさに徹するのが楽でいい。で、元気が出てきたら前向きな意味でも取って付ければいい。“生きてることに意味はない”ってのは意味を取ったり付けたり自由自在で使い勝手のいい考え方です。
「生きてること」それ自体の意味を考えたくなるのもわかりますが、小説内の登場人物が言うように「生きてること自体からあらわれる」ことの意味を考えるのもひとつの手段ですね。根源的なことを問うと泥沼であがくことになるので問いをズラしてしまうのも日常を平穏にたもつ技術です。登場人物が言うように実際「現に生きてる」わけですから、いまさら「生きてること」自体の意味を問うより「生きてること」で起こるさまざまな事象について考えるほうが結論も得やすく、泥沼にハマることもない。ま、間断なく次から次へと何かしら起こるのが人生でして、これはこれで日常の平穏をたもつのは難しかったりもしますけど。
そもそもその意味を考えるより先に「生きる」とは何か? と問うのが順番ですけどね。その行為というか現象というか、それが何かが解っていないと意味が解るはずもありません。それは何か? を理解してのち、その意味を問うことが可能になるわけです。“それ”が何であるかも解っていない状態でいきなり意味は問えません。
いきなり「生きてること」の意味を問うということは、おそらく「生きてること」は自明であってそれを問うなんて考えもしないのでしょう。あたくしにとっては自明どころかこれこそがもっとも不思議なことなんですけどね。「生きる」って何が何やらさっぱりわからない。何ですか、これ?
ってえか、「在る」ことが不可思議。「無い」んじゃなくて「在る」。何、これ?
ま、根源的なことを考えると底なし沼なので、そんなことはほどほどにして日常に帰還するといたしましょう。現に生きてるんですから、つべこべ言わずに日常を生きればいいんです。
さて、晩のおかずはなんにしようかしら。