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布施弁天鐘楼と飯塚伊賀七のこと 2

2021年10月05日 | ぼくのとうかつヒストリア
3 からくり伊賀


【図2】
飯塚伊賀七の肖像(部分) 広瀬周度筆 弘化2年(1845)
出典 Wikipedia

布施弁天鐘楼の設計者、飯塚伊賀七(宝暦12年(1762)~天保7年(1836))は常陸の国谷田部村(現茨城県つくば市谷田部)の代々の名主の家に生まれました。広い敷地と山林を所有し、経済的に恵まれた環境でした。残念ながら、伊賀七に関する詳しいことは分かっていません。実家に遺されていたはずの資料、発明品などは、若干を残してほとんどが失われてしまったのです。残念なことです。

伊賀七が生きた時代は、飢饉、災害が相次ぎました。若くして名主となった伊賀七は、領主と農民の間に立って奔走したようです。お役目を果たす日々の傍ら、徹夜でからくりに熱中することもしばしばで「からくり伊賀七(伊賀)」と呼ばれるほどでした。恐らく、そのような時代にあって、最新の知識と技術を世の中に役立てたかったのではないでしょうか。農器具や測量器具の開発はそのことを物語るのではないかと思います。

几帳面な性格で、機器類には製作年月日、取扱注意書きなどが記されていて、科学者、技術者の資質を備えていたことが分かります。その一面、信仰に篤く、参詣や寄進にも積極的でしたし、弁才天鐘楼堂の設計を引き受けたこともその一環ではなかったかと考えられます。


この時代の交通の発達は書籍や情報を地方に伝え、文化の発展に寄与しました。伊賀七は、木割りなどの建築の知識も何らかの形で学んでいたのだと思われます。
藩医などとも親交があったと言われ、蘭学など当時の最新知識にも触れる機会もあったのではないでしょうか。

彼の没後、谷田部藩医、広瀬周度(1782-?)によって描かれたとされる伊賀七の肖像画を見ると、柔和な表情の中にも知的好奇心の強さ、繊細で理知的な性格が見てとれるように思います。

伊賀七の発明品、建築の主なもの(設計、試作、未完、消失、推定を含みます。)
布施弁才天鐘楼堂、五角堂、自宅母屋、時計・懐中時計、農器具・機械、自動人形、測量機器、自転車、飛行機等




4 七里ヶ渡しまで
鐘楼の見学を終えてから、飯塚伊賀七が辿ったであろう弁天下の道を、当時の渡船場、利根川の七里ヶ渡し(しちりがわたし)跡まで行き、かつての様子を偲んでみたいと考えました。

七里ヶ渡しという名称は、川幅を言うのか、岸の長さを言うのか、誇張なのか、単なる美称なのか分かりません。また、利根川東遷以前から存在したという説もありますが、はっきりしているのは元和2年(1616)に定船場に定められてからとのこと。
享保15年(1730)に、土浦ー谷田部ー小張ー戸頭~七里ヶ渡し~布施ー呼塚に至る水戸街道の脇往還が整うと、渡し舟は利用客でますます繁盛したようです。弁天参詣の旅客も多く、飯塚伊賀七もその一人だったことでしょう。

今は、干拓、開発によって幾何学的な区画、道路、堤防が広がっていますが、伊賀七の当時は湿地や沼が一面に広がっていたと思われます。そんな中の一本道を行けば利根川から筑波山まで一望だったことでしょう。



【写真17】
布施弁天下から七里ヶ渡しへ向かう途中に庚申塔、祠などが三基並んでいます。基壇はコンクリートで後世のものです。庚申塔には弘化5年(1848)とあるので伊賀七が亡くなって10年以上が過ぎています。しかし、ここを通る伊賀七の姿を思い浮かべてみるのも歴史の楽しみのひとつでしょう。
左に見えるオレンジ色の橋は新大利根橋で、画面奥で利根川を渡ります。その辺りが目指す七里ヶ渡し跡です。



【写真18】
七里ヶ渡し跡は、右手の2本の大きな鈴懸の木の辺りが渡し跡らしいのですが、この時季(9月)は雑草が生い茂り容易に近づけません。訪れるのは冬枯れの頃がよいかも知れません。



【写真19】
利根川の川面を渡る新大利根橋。対岸は茨城県取手市戸頭。現在の川幅(川岸間)は約200mですが、小さな渡し舟で渡るのは危険を伴ったことでしょう。実際、事故もありました。
静まり返った渡し跡の上を車がひっきりなしに渡って行きます。伊賀七の時代から200年余。時の流れを肌で感じます。



【写真20】
新大利根橋の茨城県(取手)側から七里ヶ渡し跡辺りを見たところ。画面奥に鈴懸の木が見えます。橋上は絶えず強い川風が吹き抜けていました。



【写真21】
七里ヶ渡し跡とされる場所付近。かなり荒れた様子で、雑草や漂着物が行く手を阻みます。説明板も雑草に絡まれ読むことさえできませんでした。



【写真22】
近付くと石碑がありました。この辺りに渡し場があったとされ、水天宮の祠などが祀られています。この先が船着き場だったのでしょう。渡船場と言っても簡易な設備と小屋か茶屋程度だったでしょうから、残るものは石碑ぐらいなのでしょう。



【写真23】
中央の大きなものには「水神宮」と彫られ、側面に安永5年(1776)3月と刻まれていますので、伊賀七が15歳頃のものです。





【写真24】
七里ヶ渡し付近の利根川(上流方向を見る)。両岸の風景は江戸時代から大きく変わっていると思われます。




おわりに
布施弁天のユニークな鐘楼に関心を持つようになってから訪問を繰り返し、関係の図書を読んだりしてきました。少しであっても経緯が分かってくると、異色の鐘楼堂もようやく目に馴染んできたような気がします。
鐘楼の設計という点から出発したのですが、江戸時代後期の地方文化の発達に目を向けることになりました。これは、封建的と言われる江戸時代の見方を少し変えさせてくれました。
また、当時、伊賀七が通ったであろうルートの内、利根川の七里ヶ渡~布施弁天までを確認することができ、当時の水運と陸路についても知るきっかけができたのは収穫だったと思います。布施は、渡しだけでなく陸送の河岸としても繁栄していたと言われています。それは布施弁天にも発展をもたらしました。

飯塚伊賀七が没してから明治までは30年あまり。およそ50年後の明治23年(1890)6月には利根運河が開通、明治29年(1896)12月には日本鉄道海岸線(現常磐線)が開通して水運を過去のものとしていきます。それに伴い、渡しと河岸で栄えた布施も寂れていきます。
時の流れは川の流れのように(歌のタイトルのようですが)抗えないものなのでしょうが、できれば利根川の川面を行く渡し舟や帆掛け舟の姿を見てみたいものだと思いました。

伊賀七の功績については、近年、認められつつあるようです。「つくばのレオナルド・ダ・ビンチ」とも称されることもあるようですが、時代を考えればそれも大袈裟でもないように思います。
この次は、是非、伊賀七の地元、谷田部を訪ねてみたいと思っています。




【写真25】
新大利根橋からの利根川の夕景


注記
①飯塚伊賀七は、フルネームかつ敬称を付すべきですが、敬意を込めて伊賀七と表記させていただきました。
②七里ヶ渡とせず、七里ヶ渡しと表記しました。
③布施弁天は、布施弁才天、弁財天等とも表記し、特に統一をしていません。
④旧字体は新字体に改めました。
⑤撮影は、2021年9月中・下旬に行いました。


参考文献
1. 赤松宗旦著、柳田国男校訂『利根川図志』(岩波文庫)1971年10月.
2. 柏市史編さん委員会編 『柏市史;近世編』柏市教育委員会、1995年7月.
3. 柏市教育委員会編 『柏の金石文 (Ⅰ)』柏市教育委員会、1996年3月.
4. 柏市史編さん委員会編『柏のむかし』柏市役所、1976年6月.
5. 田村竹男著『飯塚伊賀七;民間科学者からくり伊賀伝』(ふるさと文庫:茨城)崙書房、1979年1月.
6. 谷田部町文化財保存会編『飯塚伊賀七』谷田部町文化財保存会.1963年5月.
7. 「からくり伊賀;飯塚伊賀七;研究学園都市・谷田部の先覚者」『常陽藝文』(常陽藝文センター)
  no.18.pp.2-10,1984年11月.

その他、多くのインターネット上のサイトを参考にさせていただきました。厚く御礼申し上げます。

Nikon Z 6 / NIKKOR Z 24-70mm f/4 S


布施弁天鐘楼と飯塚伊賀七のこと 1
(おわり)


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