自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「兵庫津の道」!!「兵庫七福神をたずねて」!!Vol.5

2008-03-04 14:29:15 | 歴史
「兵庫津の道」

「兵庫七福神をたずねて」

「第5弾」

「柳原天神社」

「須磨の綱敷天満宮」等とともに
「菅原道真」ゆかりの「神社」の「ひとつ」です。

「延喜元年」(901年)2月」
「道真」は「左遷先」である
「大宰府」への「途次」
「暴風雨」を避ける為に
「和田岬」に「一時上陸」したと言われ
「彼の死後「所縁の地」である「兵庫」に
「大宰府「安楽寺」から「分霊」を受けて奉ったのが
「始まり」と伝えられています。

「鎌倉時代」には
「時宗の僧「他阿」が「この神社の傍ら」に
「満福寺」を「建立」し
「この寺」の「僧侶」が「奉仕」していましたが
「明治初年」の「神仏分離」によって
「独立」しました。

「柳原天神社」は
「兵庫七福神」の
「布袋」です。

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「兵庫津の道」!!「兵庫七福神をたずねて」!!Vol.4

2008-03-01 13:29:57 | 歴史
「兵庫津の道」

「兵庫七福神をたずねて」

「第4弾」

「能福寺」

「能福寺」は
「延暦24年」(805年)に
「最澄」が「自作」の「薬師如来像」を
「安置」して「日本初」の
「教科霊場」にした事に始まると言われる
「天台宗」の「寺院」です。

「ここ」には「日本三大仏」の「一つ」
「兵庫大仏」がありましたが
「戦時中」の「金属供出」で
「台座」だけが残されました。

「現在」見られるのは
「平成3年」(1991年)に
「再建」された物です。

「また「境内」には
「ジョセフ・ヒコ」(浜田彦蔵)が
「英文」で「寺の由来」を「説明」した「碑」や
「神戸事件」で「切腹」した
「滝 善三郎」の「供養塔」など
「多く」の「史跡」があります。

「能福寺」は
「兵庫七福神」の
「毘沙門天」です。

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「兵庫津の道」!!「兵庫七福神」をたずねて」!!Vol.3

2008-02-15 15:04:17 | 歴史
「兵庫津の道」

「兵庫七福神」をたずねて」

「第3弾」

「真光寺」(しんこうじ)

「真光寺」は
「時宗」の「開祖」である
「一遍」が「亡くなった場所」に
「建立」された「寺院」です。

「この寺」の「東側」には
「須佐の入江」と呼ばれる
「入海」が広がっていました。

「一遍」は
「おどり念仏」と呼ばれる「布教方法」で
「全国」を「遍歴」した事で知られ
「正応2年」(1289年)に
「兵庫観音堂」で
「51歳」の「生涯」を閉じています。

「境内」に残る「一遍の廟所」は
「県」の「史跡」に「指定」されている他
「南北朝時代」に「再建」されたと思われる
「石造五輪塔」も「県」の
「重要文化財」に「指定」されています。

「真光寺」は
「兵庫七福神」の
「福禄寿」(ふくろくじゅ)です。

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「世界最古の会社」!!「日本」にあったぞ」!!

2008-02-14 15:04:47 | 歴史
「世界最古の会社」が

「日本」にあります!!」

「大阪市天王寺区四天王寺」の

「金剛組」と言う
「建築会社」です。

「飛鳥時代」(578年)に
「聖徳太子」が
「四天王寺」を「建立」する為に
「百済」から「3人」の「宮大工」を
「呼び寄せ」ました。

「その中の一人」

「金剛重光」(柳 重光)を
「始祖」として
「現在」まで「会社」が続いており
「1400年」の「歴史」があります。

「すごい会社」があったもんや!!」

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「篤姫」!!「登場人物」!!Vol.2

2008-02-12 11:16:03 | 歴史
「篤姫」

「登場人物」

「第2弾」

「小松 清廉」(こまつ きよかど)
「小松 帯刀」(こまつ たてわき)
「肝付尚五郎」(きもつき なおごろう)

「天保6年10月14日」(1835年12月3日)
- 「明治3年7月20日」(1870年8月16日)

「薩摩藩士」「明治時代初期」の「政治家」である。
「通称」は「尚五郎・帯刀」
「官位」は「玄蕃頭」
「家紋」は「抱き鬼菊の葉」
「一般」には「小松帯刀」(こまつ たてわき)
の「呼び名」で知られる。


「天保6年」(1835年)
「薩摩国下原良村」にて
「喜入領主・肝付兼善」の「三男」として生まれた。

「安政3年」(1856年)
「吉利領主・小松清猷」の妹千賀」と「結婚」
「婿養子」となって「小松氏」の「家督」を「継承」した。

「文久元年」(1861年)
「島津久光」に「才能」を見出されて
「その側近」となり「大久保利通」と「共」に
「薩摩藩」の「藩政改革」に取り組んだ。

「文久2年」(1862年)には
「久光」による「上洛」に「随行」し
「その帰国後」は「家老職」に「就任」した。
「その活動」は「主」に「京都」におけるもので
「朝廷」や「幕府、諸藩」との「連絡・交渉役」を務めた。

「在京中」は「土佐藩脱藩浪士」だった
「坂本龍馬」(小松と龍馬は同年である)と「昵懇」となり
「龍馬」の「亀山社中」(のちの海援隊)設立」を「援助」したり
「龍馬」が「お龍」を「妻」として
「娶った際」の「世話役」を務めている。

「なお「薩長同盟」における「密約」や
「その際」に「長州藩代表」の「桂小五郎」が「滞在」したのも
「京都」における「小松の屋敷」であった。

「慶応3年」(1867年)の
「薩摩藩」と「土佐藩」との「盟約」である
「薩土同盟」など「諸藩」との「交渉」において
「大きな功績」を立てている。

「徳川慶喜」が「諸大名」を集め
「京都・二条城」で「大政奉還」を「発表」した時は
「小松」が「薩摩藩の代表」として「参上」した。
「龍馬」の「新政府」の「人事構想」では
「西郷・大久保・桂」を抑えて
「筆頭」に挙げており
「当時の人々」の「小松」の「評価」が窺われる。

「明治維新後」は「新政府」において
「参与」や「外国官副知事」を務めるが
「明治3年」(1870年)に
「36歳」の「若さ」で「病死」した。

「寛容」で「雄弁・明快」な「人柄」で
「人望」が厚く「大久保」や「西郷隆盛」らからも
「将来」を「期待」されていた「人物」であったが
「あまりに「若すぎる最期」であった。

「下級武士」に過ぎなかった
「西郷」や「大久保」
「一介の浪人」であった「龍馬」が
「幕末期」に「活躍」できたのも
「薩摩藩家老」であった
「小松」による「庇護」が大きい。

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兵庫津の道」!!「兵庫七福神」をたずねて」!!Vol.2

2008-02-09 16:33:50 | 歴史
「兵庫津の道」

「兵庫七福神」をたずねて」

「第2弾」

「薬仙寺」

「薬仙寺」は
「天平18年」(746年)に
「行基」(ぎょうき)が「開いた」
と伝えられる「寺院」です。

「元弘3年」(1333年)
「後醍醐天皇」が「配流先」の
「隠岐」を「脱出」し
「福厳寺」に「身を寄せた折」に
「薬水」を「献上」した事から
「薬仙寺」の「名」を「賜った」
とも伝えられています。

「元」は「天台宗」でしたが
「延文元年」(1356年)
「往僧真如」は「念仏修行」に訪れていた
「時宗」の「僧国阿」の「門弟」になり
「時宗」に「改宗」しました。

「本尊」の「薬師如来坐像」は
「国」の「重要文化財」に「指定」されており
「境内」には「平清盛」が
「後白河法皇」を「幽閉」したと言われる
「萱の御所」跡」の「碑」などがあります。

「薬仙寺」は
「兵庫七福神」の

「寿老人」です。

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「兵庫津の道」!!「兵庫七福神」をたずねて」!!Vol.1

2008-02-08 15:13:16 | 歴史
「兵庫津の道」

「兵庫七福神」をたずねて」

「第1弾」

「和田神社」

「神代の昔」に
「蛭子大神」が「淡路島」から
「和田岬」に「上陸」したと言われています。

「承安3年」(1173年)には
「平清盛」が「この地」に
「安芸の宮島」より
「市杵嶋姫大神」(いちきしまひめのおおかみ)
を「勧請」しています。

「万治元年」(1658年)には
「武庫川」の「氾濫」によって
「岡田宮」の「ご神体」が
「和田岬」に「漂着」した事から
「尼崎藩主「青山幸利」は
「大社殿」を「造営」しました。

「和田神社」は
「海の守り神」として「崇敬」され
「境内」には「知多半島」を「拠点」として
「江戸」と「兵庫」を結んだ
「尾州廻船」の「船主」や
「江戸」と「兵庫」の「商人」たちが
「奉納」した「常夜灯」などが残されています。

「和田神社」は
「兵庫七福神」の

「弁財天」です。

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「篤姫」!!「登場人物」!!Vol.1

2008-02-04 10:53:01 | 歴史
「篤姫」

「登場人物」

「第1弾」

「ジョン万次郎」(ジョン まんじろう)

「文政10年1月1日」(1827年1月27日)
~ 「明治31年11月12日」(1898年)
「波乱万丈の人生」を送り「幕末の日本」で
「活躍」した「通訳・教師」
「本名」「中濱万次郎」(なかはままんじろう)

「土佐国中浜村」(現在の高知県土佐清水市中浜)の
「貧しい漁師」の「次男」に生まれた。

「1841年(天保12年)
「14歳の時」に「漁師の手伝い」で
「漁」に出たあと「遭難」し「5日半漂流後」
「奇跡的」に「太平洋」に浮かぶ
「無人島」の「鳥島」に「漂着」して
「143日間生活」した。

「そこ」で「アメリカの捕鯨船」
「ジョン・ハウランド号」に「仲間」と「共」に救われる。
「日本」はその頃「鎖国」であったため
「救われた大人達」は「寄港先」の「ハワイ」で降ろされるが
「アメリカ」の「ホイットフィールド(Whitfield)船長」に
「気に入られた「万次郎」は「本人の希望」から
「そのまま「一緒」に「航海」に出る。
「船名」にちなみ「ジョン・マン」 (John Mung) の
「愛称」を「アメリカ人」からつけられた。

「アメリカ」で
「英語・数学・測量・航海術・造船技術」などを「学び」
「やがて「船員達」の「投票」により「副船長」に選ばれる。
「万次郎」は「アメリカの民主主義」を
「目の当たり」にする事になる。

「世界の各地」を「航海」した「万次郎」は
「その後「船を購入」し「ハワイ」に「寄港」
「元の仲間」と「再会」し
「1851年」(嘉永4年)共に
「日本」へ「帰国」を果たす。

「海外」から「鎖国の日本」へ「帰国」した
「万次郎達」は「長期間尋問」を受ける事になるが
「なんとか「土佐」に帰る事」ができた。

「その際「薩摩藩」の「島津斉彬」が
「その知識」に「注目」し
「幕府」では「ペリーの来航」によって
「アメリカ」の「知識」の「重要性」が増していた事から
「1853年」(嘉永6年)
「幕府」に「召聘」され「直参の旗本」となった。
「この際」「生れ故郷の地名」を取って
「中浜」の姓が授けられた。

「江戸」で「通訳」も務め
「また「アメリカ」で身につけた
「学問」を「基」に「各地」で「講師」としても「活躍」する。
「高知」では「坂本龍馬」も
「万次郎」から聞いた「世界観」に
「影響」を「受けた」と言われ
「激動の幕末」における「影の重要人物」である。

「万次郎」は「少年期」に
「日本」で「基本的な学識」を身に付ける事なく
「米国」に渡った為「通訳」としては「有能」であったが
「文章化」された「英語」を
「日本語」に「訳する事」が「不得手」であったとされる。

「そのため「西洋」の「体系的知識」を
「日本に移入」する事が求められた
「明治以降」は「能力」を「発揮」する「機会」に恵まれず
「目立った活躍」はしていない。

「鎖国中の日本」において
「アメリカ本土」に「初めて「足を踏み入れた人物」である為
「彼」は「初めて「鉄道・蒸気船」に乗った「日本人」でもある。

「伝記」を「子孫」が「3代」に渡って
「同じ出版社」から出した事でも知られ
「ホイットフィールド船長」の「子孫」とも
「代々交流」がある。
「また「出身地」の「土佐清水市」は
「アメリカ」での「滞在先」となった
「ニューベッドフォード市」
「フェアヘーブン市」の「両市」と
「姉妹都市盟約」を「締結」し
「現在」も「街ぐるみ」での「交流」が続けられている。

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