「2月18日(火)」
「田沼意次」
「1772年2月18日」
(安永7年1月15日)
田沼意次が老中に就任する。
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、
江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。
遠江相良藩の初代藩主である。
相良藩田沼家初代。
この頃より
老中首座である松平武元など
意次を中心とした幕府の閣僚は、
数々の幕政改革を手がけ、
田沼時代と呼ばれる権勢を握る。
悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、
重商主義政策を採る。
内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、
鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、
俵物などの専売による外国との貿易の拡大、
下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手する、
などの政策を実施した。
田沼時代の政策は
幕府の利益や都合を優先させる政策であり
諸大名や庶民の反発を浴びた。
また、
幕府役人のあいだで賄賂や縁故による
人事が横行するなど、
武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。
都市部で町人の文化が発展する一方、
益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、
都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。
印旛沼運河工事の失敗や
明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、
疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる
食糧難や疫病が生じた。
享保の大飢饉時には
大飢饉に陥った西日本に対して、
大名への拝借金、大規模な回米などといった
かなり迅速かつ大規模な救援が幕府主導で実施されたが、
天明の大飢饉時には
幕府はわずかな大名拝借金を認めたのみで、
積極的な被災地救援に乗り出そうとはしなかった。
その中にあって、
財政難に陥っていた諸藩は
米価の値上がりを借金返済の機会とし、
検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
このような世相の中、
それらが元による都市部の治安の悪化、
一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、
江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に
贈収賄疑惑を流されるなど、
次第に田沼政治への批判が集まっていく。
赤字続きだった長崎会所の財政を健全化し、
国内の金保有量を高めた。
蝦夷の開発も行おうとしたときもあったが、
蝦夷に送られた調査団は
樺太、国後、択捉などの北方の島を含め
蝦夷地を耕作適地と判断し、
蝦夷地を新田開発すれば
幕領の400万石を超える583万石の収入が手に入り、
それはアイヌを3万。
、を7万人移住させれば賄えると主張した。
ほか、平賀源内などと親交を持ち、
蘭学を手厚く保護し、
士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく
人材登用も試みたが、
これらの急激な改革が
身分制度や朱子学を重視する
保守的な幕府閣僚の反発を買い、
天明4年(1784年)に意次の世子のまま
若年寄を勤めていた田沼意知が
江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。
天明6年(1786年)8月25日、
将軍家治が死去した。
死の直前から「家治の勘気を被った」として
その周辺から遠ざけられていた意次は、
将軍の死が秘せられていた間
(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)
に失脚するが、
この動きには反田沼派や
一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。
8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。
閏10月5日には
家治時代の加増分の2万石を没収され、
さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と
江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、
意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。
相良城は打ち壊し、
城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
長男の意知はすでに暗殺され、
他の3人の子供は全て養子に出されていたため、
孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで
辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。
同じく軽輩から
側用人として権力をのぼりつめた
柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、
家禄も維持し続けたことに比べると、
最も苛烈な末路となった。
その2年後にあたる
天明8年(1788年)6月24日、
江戸で死去した。
享年70。
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●当店ホームページ
https://cycle-plaza-eleven.com
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自転車屋男2
http://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
よろしくお願いします。
「田沼意次」
「1772年2月18日」
(安永7年1月15日)
田沼意次が老中に就任する。
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、
江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。
遠江相良藩の初代藩主である。
相良藩田沼家初代。
この頃より
老中首座である松平武元など
意次を中心とした幕府の閣僚は、
数々の幕政改革を手がけ、
田沼時代と呼ばれる権勢を握る。
悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、
重商主義政策を採る。
内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、
鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、
俵物などの専売による外国との貿易の拡大、
下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手する、
などの政策を実施した。
田沼時代の政策は
幕府の利益や都合を優先させる政策であり
諸大名や庶民の反発を浴びた。
また、
幕府役人のあいだで賄賂や縁故による
人事が横行するなど、
武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。
都市部で町人の文化が発展する一方、
益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、
都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。
印旛沼運河工事の失敗や
明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、
疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる
食糧難や疫病が生じた。
享保の大飢饉時には
大飢饉に陥った西日本に対して、
大名への拝借金、大規模な回米などといった
かなり迅速かつ大規模な救援が幕府主導で実施されたが、
天明の大飢饉時には
幕府はわずかな大名拝借金を認めたのみで、
積極的な被災地救援に乗り出そうとはしなかった。
その中にあって、
財政難に陥っていた諸藩は
米価の値上がりを借金返済の機会とし、
検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
このような世相の中、
それらが元による都市部の治安の悪化、
一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、
江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に
贈収賄疑惑を流されるなど、
次第に田沼政治への批判が集まっていく。
赤字続きだった長崎会所の財政を健全化し、
国内の金保有量を高めた。
蝦夷の開発も行おうとしたときもあったが、
蝦夷に送られた調査団は
樺太、国後、択捉などの北方の島を含め
蝦夷地を耕作適地と判断し、
蝦夷地を新田開発すれば
幕領の400万石を超える583万石の収入が手に入り、
それはアイヌを3万。
、を7万人移住させれば賄えると主張した。
ほか、平賀源内などと親交を持ち、
蘭学を手厚く保護し、
士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく
人材登用も試みたが、
これらの急激な改革が
身分制度や朱子学を重視する
保守的な幕府閣僚の反発を買い、
天明4年(1784年)に意次の世子のまま
若年寄を勤めていた田沼意知が
江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。
天明6年(1786年)8月25日、
将軍家治が死去した。
死の直前から「家治の勘気を被った」として
その周辺から遠ざけられていた意次は、
将軍の死が秘せられていた間
(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)
に失脚するが、
この動きには反田沼派や
一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。
8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。
閏10月5日には
家治時代の加増分の2万石を没収され、
さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と
江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、
意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。
相良城は打ち壊し、
城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
長男の意知はすでに暗殺され、
他の3人の子供は全て養子に出されていたため、
孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで
辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。
同じく軽輩から
側用人として権力をのぼりつめた
柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、
家禄も維持し続けたことに比べると、
最も苛烈な末路となった。
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天明8年(1788年)6月24日、
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