「1月15日(水)」
「大河ドラマ「べらぼう」
「主要登場人物」
「蔦屋重三郎」
(横浜流星)
蔦屋重三郎は、
1750年(寛延3年)に
吉原(現在の東京都台東区千束)に生まれました。
のちに、
吉原で引手茶屋(ひきてぢゃや:
遊客を遊女屋へ案内する茶屋)
「蔦屋」を営んでいた「喜多川氏」の養子となります。
江戸時代、
吉原遊郭は遊ぶ場所であるというだけでなく、
流行の発信地でもありました。
蔦屋重三郎は、
そんな吉原の引手茶屋を間借りして
書店(貸本屋)を開きます。
そして24歳のとき、
吉原の案内書である「吉原細見」(よしわらさいけん)の
編集者に抜擢されました。
吉原細見は、
どの店にどんな遊女がいるのかなど、
吉原に関するあらゆる情報が掲載されており、
内容が有用で魅力的であるほど
集客につながる重要な出版物だったのです。
蔦屋重三郎がはじめて参画した「吉原細見」では、
序文の執筆者として
発明家であり学者・作家でもある
「平賀源内」(ひらがげんない)が
起用され話題を集めます。
1780年(安永9年)、
蔦屋重三郎は、
人気作家「朋誠堂喜三二」(ほうせいどうきさんじ)の
黄表紙(挿絵を多用した小説本)を
出版したのを皮切りに出版事業を拡大。
書店であり版元でもある
「耕書堂」の主人として、
黄表紙、狂歌本
(社会風刺を織り込んだ短歌の挿絵入本)、
洒落本(遊郭での粋な遊びについて書かれた本)など
次々にヒット作を刊行します。
そして
蔦屋重三郎が33歳となった
1783年(天明3年)には、
江戸の一流版元が軒を連ねる
日本橋通油町
(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)へ進出。
「錦絵」(多色刷りの浮世絵)の出版も
手がけるようになり、
まだ駆け出しだった喜多川歌麿と出会うと、
多くの名作を世に送り出していきます。
喜多川歌麿は、
もともとの画号であった「北川」を
蔦屋重三郎の養親の姓である「喜多川」に改め、
長く蔦屋重三郎専属の絵師として
筆を振るうことになるのです。
蔦屋重三郎がタッグを組んで売り出した才能には、
喜多川歌麿をはじめ、
葛飾北斎、「歌川広重」(うたがわひろしげ)、
「鳥居清長」(とりいきよなが)、
「渓斎英泉」(けいさいえいせん)といった
そうそうたる浮世絵師達、
また滝沢馬琴や「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)
などの読本作者が挙げられます。
その多くは、
押しも押されもせぬ巨匠として
後世に名を残すことになり、
蔦屋重三郎の事業も順風満帆に見えました。
1791年(寛政3年)には、
蔦屋重三郎が刊行した
山東京伝の洒落本・黄表紙の3冊が
取り締まりの対象となり、
山東京伝は手鎖50日、
蔦屋重三郎は財産の半分を没収されるという
処罰を受けることになりました。
幕府に目を付けられた蔦屋重三郎は、
その後も抑圧されることになります。
しかし
蔦屋重三郎はそれに屈することなく、
前代未聞のエンターテインメントを仕掛けたのです。
それは、無名であった浮世絵師、
東洲斎写楽の役者絵を28枚一挙に売り出すという
大胆な企画でした。
東洲斎写楽の作品は江戸の人々に衝撃を与え、
一世を風靡します。
東洲斎写楽は10ヵ月余りの間に、
蔦屋重三郎のもとでおよそ140点の作品を発表。
そのあと、
忽然と姿を消してしまったため、
様々な憶測を呼ぶこととなりました。
東洲斎写楽のデビューを企画してから
わずか3年後の1797年(寛政9年)、
蔦屋重三郎は
当時「江戸わずらい」と呼ばれていた
脚気(かっけ)で死去します。
享年48歳でした。
●サイクルプラザ・イレブン(ホームページ)
https://cycle-plaza-eleven.com
●自転車屋男2(ブログ)
https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
●Amazon
サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)
●メルカリ
チャーリー自転車(ネット販売)
宜しくお願い致します!!
https://cycle-plaza-eleven.com
●自転車屋男2(ブログ)
https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
●Amazon
サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)
●メルカリ
チャーリー自転車(ネット販売)
宜しくお願い致します!!