「2月16日(金)」
「ドラマ「大奥」
「主要登場人物」
「徳川家治」
(江戸幕府第十代将軍)
(亀梨和也)
徳川 家治(とくがわ いえはる)は、
江戸幕府の第10代将軍
(在任:1760年 - 1786年)である。
第9代将軍徳川家重の長男。
元文2年5月22日、
第9代将軍・徳川家重の長男として
江戸城西ノ丸にて生まれる。
母は梅渓通条の娘・梅渓幸子(至心院)。
幼名は竹千代。
幼少時よりその聡明さから、
第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を
一心に受け寵愛されて育った。
吉宗は死亡するまで、
家治に直接の教育・指導を行った。
それは、言語不明瞭だった家重に
伝授できなかった帝王学の類を教えるためでもあった。
家治は文武に明るかったが、
これも吉宗の影響が非常に大きい。
寛保元年 (1741年)8月、
元服して権大納言に叙任する。
宝暦4年(1754年)12月
直仁親王の娘・五十宮と結婚した。
宝暦10年(1760年)5月3日、
父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、
9月2日には
正式に将軍宣下を受けて
第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。
父の遺言に従い、
田沼意次を側用人に重用し、
老中・松平武元らと共に政治に励んだ。
しかし
松平武元が死亡すると、
田沼を老中に任命し幕政を任せ、
次第に自らは
将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
田沼は
印旛沼・手賀沼干拓を実施し、
蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。
安永8年 (1779年) 、
世子・徳川家基が18歳で急死したため、
天明元年(1781年)に
一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代
(後の第11代将軍・徳川家斉)を養子とした。
天明6年(1786年)8月25日に死去。
享年50。(満49歳没)
死因は脚気衝心
(脚気による心不全)と推定されている。
高貴な人の死は
1カ月ほど秘されるのが通例
(発葬されたのは9月8日・新暦9月29日)だが、
その間に
反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。
また、
意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の
薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、
田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
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